ピンポーン……


遙は祈るように両手を顔の前でがっちりと合わせた。自然と脈が早まり、煩い程に鼓膜に反響する。

額に汗が滲み、膝は痙攣したように震えた。ガークとフェリスも怪しまれないように後方へと隠れる。

逃げたくなる衝動を踏み付けながら、遙はひたすら瞑目し続けた。



――しかし。おかしい、何時まで経ってもドアが開く様子は無い。それどころか、人の気配もしない。

遙はふいに顔を上げ、抜けたような、きょとんとした顔立ちになる。


「あ、あれ?」


「どういうことだよ? こんな夜中に外出するような母親なのか?」


拍子抜けしたガークと、様子を訝しがるフェリスまでが遙の元へと歩み寄った。


「え、ええと……」


遙はしどろもどろになりつつも、闇が覆う庭へと視線を移した。


芝生の敷かれた庭に、張り出したウッドデッキ。その付け根に設置されたガラス製の窓は硬く閉められており、内側から厚いカーテンを掛けられている。

カーテン越しではあるが、室内に電気が点いている様子も無い。遙は視線を玄関に戻した。



どうしたのだろう? 仕事がまだ続いているのだろうか。

だが、娘である自分が突然いなくなってしまったのだから、もしかしたら、警察署とか、その辺りに行っているのかもしれない。

あるいは眠っているのかも知れなかった。だが、起こすのに、何度もベルを鳴らせば、近所の人に怪しまれる。


遙は落ち着かぬ様子で学生鞄を肩から下ろし、中身を開けると、自宅の予備の鍵を取り出した。

幸い、常時持ち歩いていた鍵だったため、こんな時に役に立った。まだ震える手でドアノブの下に開いた鍵穴へと挿し込む。


カチリ……と、ロックが外れる音がして、遙は玄関戸を引いた。

室内は消灯されているため暗く、遙は獣の眼を使って家内を見回す。


「……ガーク、フェリスさん。多分、入って来ても大丈夫だと思う」


遙は多少落胆したように玄関の電気のスイッチを入れると、陰鬱だった廊下に、ぱっと明かるい光が点った。

急いで革靴を脱いで、リビングへと顔を出す。……誰の気配もしない。本当にいないのだろうか?

遙は獣の感覚を集中させてみたが、人がいるらしい気配は感じ取れなかった。


「誰もいないみたいだ。多分、今日は留守にしているのかも知れない」


「何だ? 誰もいないのか。拍子抜けしちまうぜ」


ガークが目尻に涙を溜めて、大きく欠伸をした。遙は不安になって、リビングへと踏み出そうとした……が。


「誰もいない? んー……遙、二階に何かの『気配』がするけど……勘違いかな?」


フェリスが何気なく呟いた途端、リビングに入って様子を窺っていた遙が、慌てて振り向いた。


「あっ!」


何か思いついたように遙は唐突に声を上げ、思わず下ろし掛けていた学生鞄を背負う。


「ガークも、フェリスさんも、こっちでゆっくりしていて良いから!」


遙はそう言うや否や、たちまちリビングを出て、廊下を疾走して行った。

余程急いでいたのか、リビングの電気も点けずに走り去っている。


「? 何かあったのか」


「さぁ? でも、さっき感じた気配は人間のものじゃないよ」


残ったガーク達は、無論、顔を見合わせるばかりである。結局、二人とも困惑したように渋々リビングへと入った。










「はぁ……はぁ」


ドタドタと階段を駆け上がり、靴下を履いているお陰でまろびそうになりながらも、二階へと突入した。

暗い二階は、天井付近に設けられた窓を通ずる月光を浴びて、薄青に濡れている。遙はドアを突き破る勢いで開け、自室へと入った。


バタン!


遙は自室に入ると共に、荒々しくドアを閉め、手探りで鍵まで掛ける。この部屋だけは、余りガーク達に踏み入って欲しくなかったのかも知れない。


自分の部屋……左側には布団と毛布が掛けられた寝台。右側には少し小さな洋服箪笥。部屋の右奥には勉強机があり、大小様々な教科書がきちんと整列されている。

柔らかい白桃色をベースとした絨毯は、アラベスクのような模様が茜色で刻まれ、そのふわふわとした足元は踏み慣れた感触があった。

部屋の真正面にある窓は閉め切られ、一階と同じくカーテンが掛けられている。そのカーテンを通り抜け、遠くの街の灯りがチカチカと星のように瞬くのが、おぼろげに見えた。


遙が向かった先は、机でも、ましてや寝台でもなかった。向かったのは、その寝台の真横に置いてある、小さなマウスケージ。


「ラボ……ただいま」


遙は屈み込んで、鉄格子が編まれたケージ内を見詰めた。

そこには、明らかに自然発生した生物ではなく、全身に虎模様を持った、少々大きめなラットが怪訝そうに鼻をぴくぴくと微動させていた。

赤い瞳は大きく、白目の部分が見えない。髯が鼻の動きと一緒に振動するのを見ながら、遙は綻んだ。


このラットのラボは、普通の動物ではない。自分がまだ中学生だった頃に、離婚したと思われる父が母を通してくれたものだった。

虎柄で奇妙に大きいこのラットは、元々実験動物として飼育されていたようだが、もう実験所に置いておく理由も無いとの事で、遙の元へやって来た。

遺伝子操作で造り出した――トランスジェニックアニマルとか、そんな動物らしいが、当時 (今もだが) の遙にはどうやって発生したのかなど、難しい事は分からなかった。

しかし、余り家族と遊ぶ時間の少なかった遙にとって、もう数年も一緒に暮らしている大切な友達である事には相違無い。


取り合えず遙はケージの扉を開けてやり、中へと手を差し伸べる。いつもならこのラットのラボは近寄って、手に乗って来てくれる筈だった。

だが、ラボは一切近寄らない。いや、それ以前に、遙の手から避けるようにして奥へと引っ込んだのだ。ラボは怯えたように震え、耳を寝かせている。

予想外のラットの反応に、遙は当惑したように細い眉を八の字に曲げた。


「どうしたの? 私……遙だよ。いつもこうやって、出してあげていたじゃない――っ」


ずきっ! と、痛みが右手の人差し指に走った。遙は痛みに顔を歪め、歯を食い縛る。

ラボは信じられない事に、遙の差し出した人差し指に噛み付いていた。齧歯目の前歯は深々と食い込み、血が流れる。

遙は焦れた。親しい、今迄世話をして、一緒に遊んできた動物が、どうしてこんな事をするのか。


「痛っ! どうしたの? 私がわからないの? ……もしかして……」


遙は自分の肉体の事を思い出した。今日の朝から今迄普通の人間と会話が出来る事に慣れ、相手はこちらが獣人であるという事に気付かない事への安堵感があった。

しかし、事実、自分はもう『人間』ではないのだ……例え常人は分からずとも、動物の鋭敏な感覚は、遙の獣の匂いを確実に捕らえているようだった。

遙の人差し指から流れ出る血は瞬時にして凝固し、ラボが眼を丸くする中、創傷はあっと言う間に塞がり始めた。指先が熱く燃える。


遙は知らず知らずに湿った頬を左手で伝い、ラボの獣顔を凝視する。もう、昔のような関係を修復する事は出来ないのだろうか?

遙が啜り泣きをしながら息を詰らせる。ラボは少しばかりおどおどとしつつも、相手が何も攻撃せず、何より、声や姿は飼い主である遙と変わりの無い事に気付いたらしく、遙の人差し指から口を離す。

ラボは、にぃ、にぃ、にぃ……と、奇怪極まりない小さな鳴き声を上げ、遙の手を伝ってケージの外へと出てきた。少しばかり警戒してか、いつもよりは緩慢な動きだったが。


「! も、もしかして分かってくれたの? あ、あははっ! 良かった……あなたにまで嫌われたかと思った……」


遙は涙をより一層滲ませた。ラボは遙の右肩に登り、いつもの定位置に着く。モソモソとした、少々硬い毛皮が遙の首筋を擦り、くすぐったい。


「ねぇ、ラボ。お腹は空いてないの? お母さんが面倒見てくれたのかな?」


一応ケージ内を確認して見ると、給水器の水はたっぷり溜められ、飼槽の中も新鮮らしい餌が詰っている。どうやら、母は今日の朝まで此処にいたようだった。

遙は唇を噛み、悔しげに両手を震わせたが、その悔恨を振り払うようにして立ち上がり、次に学生鞄を取り出した。


……そう。携帯電話だ。充電器は机の上に放り出しており、それを急いでコンセントに繋いだ。

携帯電話に電源が点き……内心ドキドキとしながら、メールの確認をしてみると、案の定、何十件ものメールが届いていた。

不在着信も・・・少なからずある。お母さん? そう思ったが、差出人の名前は違った。


「……先崎 玲 (せんざき りょう) ……!?」


遙はその名を口に出して、思わず独白を漏らした――











リビングは思いのほか広く、ガークとフェリスは電気を点けてみて眼を丸くした。

入ってすぐ隣には七〇インチはあるだろう、大きな液晶テレビが設置してあり、その前には座り心地の良さそうなソファーがどっしりと座している。

下には清潔感のある白い絨毯が敷かれており、部屋の一番奥には洋服棚が陳列され、その上には写真や置物が、更に壁には絵画などが丁寧に掛けられていた。

左側のダイニングキッチンはクロムの光沢が輝く程に綺麗に磨かれ、整頓されている。食器棚もアンティークな品であり、異国からわざわざ買い寄せたのではないかと思うほど。


……ガークは予想外の豪華な光景に顎を落しそうになっていたが、フェリスは興味深そうに室内を巡回する。


「凄いね。遙もお金持ちな子なんだ。ガークは貧乏暮らしだったっけ?」


「何だよっ、文句あるのか!」


ガークは青筋を浮かべつつ、取り合えず進み出て、人の家であるにも関わらずソファーへと腰を下ろす。

暫く安定しなかったのか、彼は座り心地を堪能するようにぼふぼふと腰を浮かしていたが、一分もすれば慣れた様にゴロリと横になった。


「お〜こりゃ良い。俺の家にはこんなの無かったのによ。ま、どうせ遙が降りてくるまで暇だし、テレビでも見ておくか」


「ガークったら……此処はあなたの家じゃないんだから」


「あいつがくつろげって言っていただろ? 別に今の家主にそう言われたんだから、全然平気だね」


ガークは再び大欠伸をする。フェリスは悪態を吐きつつ、リビングの奥にあった棚を見詰めた。

そこに立て掛けられた、額付きの小さな写真。フェリスはそれを手にとって見る。


写真には中学生の頃だろうか、セーラー服を清楚に着た遙が写っている。

写真の中の少女は、少し照れ隠しをしたように頬を赤らめているが、フェリスは遙よりもその隣に立つ女性に目を向けた。


「? ……あれ、これは遙が中学生ぐらいの写真だよね、どうして――」


「黎峯の言葉ってさぁ、文字だと全然分からないよな? おーい! フェリス、通訳っ!!」


「はぁ。もう、世話が焼けるイヌねぇ」


ガークの叫号は、止む事を知らなさそうである。フェリスは脱力したように大きな溜息を吐いた。

彼女は名残惜しそうに、写真を元にあった所へ置くと、せかせかとガークの元へと歩み寄る。

置かれた写真に、少しばかりの疑念を抱きながら……






―――――――――――






「遙が生きている!?」


凛としていながらも、驚愕したように早口な言葉で、彼女は再度問い質した。

その人物の問いに、後方に控えていた、荘厳な巨躯を誇る白い獅子が、少しばかり笑ってみせる。


「ええ、確かに。彼女は自分の名前は『東木 遙』だと言っておりました。私が持っていた学生鞄も自分のものだということに気付いていましたから、間違いないでしょう」


照明が殆ど利かない。白獅子が見詰める先に、デスクライトが細々と周囲を照らすだけの所に、一人の女性であろうか、華奢な背が見える。

女性は白衣を纏った姿に、顔は無論、見る事は出来ないが、短く切り揃えられた黒髪は艶が有り、美しい。


白獅子の言葉に、女性はその小さな肩をゆっくりと落とした。その肩は微かに震えて見える。


「……その、遙は……もしかして……」


女性が震える声音で、何かを言いかける。その様子に、白獅子は瞑目しながら告げた。


「……どのようにして、あの場にいたのかは本人も分かっていませんでしたが、唯、彼女はもう、『獣人』にされていました。
不完全なキメラ獣人で、今もGPCに狙われているようです」


「……遙……」


女性は呆然として名を呟く。その細身が、倒れるようにしてふら付いた。

それを眼にした白獅子は、慌てて走り寄り、被毛に包まれた腕で痩身を支えてやる。


「大丈夫ですか?」


「ええ、ごめんなさい……ねぇ、レオ。あなたから見て、遙はどんな子に見えた?」


藪から棒に、唐突な質問。だが、白獅子は笑みを浮かべて静かに答える。

ほんの少し開いた窓から、柔らかい風が吹き付けた。


「初見の時は『可憐』ですな。だが、怜悧で律儀。何より――」


白獅子は瞑目する。


「雅量に富んでいる……」


その答えに、女性は打って変わって、含み笑いをした。


「ふふ……レオはお世辞が上手だわ」


「いいえ。私は世辞が苦手です。あなたが知らぬ内に大きくなったのかも知れませんな。
獣人となった後も、自分で進む事を決意している。……良い仲間達にも恵まれたようです」


「有難う。……悔しいけど、私はまだ何もしてあげられない。あの子も、きっと私を恨んでるわ……」


「それこそ在り得ぬ事です。あなたも人望の厚いお方ですよ。
遙が獣人になってから、ずっと気がかりになっていた事は、自分よりもあなただ」


女性が寂しそうに笑ったと思うと、白獅子は踵を返す。その動作で、真っ白な鬣が悠然と翻った。


「レオ……迷惑かも知れないけど……遙を宜しくね」


「もちろんですとも。この命を賭してでも護り抜いて見せます」


獅子が音もなく去ると共に、部屋の照明がゆっくりと天井から照らした。

黒縁の眼鏡を掛けた顔は端整。瞳は鳶色に煌き、何が来ても動じない程に力強く据わっている。

何より、その顔立ちは、少女・遙と酷似した容姿。女性は今し方、獅子が出て行った戸を振り返って見詰めた。


「今はまだ貴方に会えない。ごめんね……遙」


女性は独白し、照明を消す。全てが闇に溶け込むまで、それ程時間は掛からなかった……








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