ガタン……ガタン。

窓に映る遠方の景色が、ゆっくりと色を、形容を変化させて消えて行く。

緑に萌える山々が連なり、空には烏に似た鳶が飛び回る。そして、その山麓には幾つかの民家が身を寄せているのだった。


電車が枕木を踏みながら、微かに揺れるのは赴きがあるというだろう。多少鄙びた感触がしない訳でもなかったが、何処か安らぐ郷愁の匂いを纏わせている。


揺れていた電車は一旦駅に止まり、大勢の客がそこで降車して行った。お陰で満杯だった席が空き、車内は一気にがらんとした雰囲気に変わる。


「……ふぅ」


慣れない道程を越えてきた疲労が重なっていた遙は、助かったとばかりに吊革から手を離し、開いた席に腰を下ろした。が……


「おー!! やっと降りて行きやがった。これで散々走り回れる訳だ!」


「じゃあ、私と車掌さんの所まで競争する? ガーク」


「!! ま、待って下さいフェリスさん……! 此処は車内で――」


先程止まった駅で、大半の人が降りたとはいえ、客人が居ない訳ではない。

連れが叫ぶし、はしゃぐ。遙は両手を挙げながら、慌てて二人を制止した。

二人は一応 「競争」 を取り消してくれたが、それでも大声で喋ったり、窓に張り付いたりで、まるで子供である。


「あぁ……どうしよう」


周囲の客から受ける痛い視線に、遙はがっくりと肩を落とした。






――――――――






ガタガタと揺れる電車の椅子に座りながら、遙は浩然と景色を見詰めた。日が西へ傾き始めている。


――あの下水道から出てから、街まで降りてきて『普通の人』と会話をするのは、やはり抵抗があった。

例え人間の姿であろうと、今はこれも仮初の姿でしかない。自分達が『獣人』だと悟られる事……それが何より怖かった。


意を決して、通りがかる人に現在地を聞けば、どうやら此処は鳳楼都に入る県境のようであり、電車や新幹線を伝って行けば、一日も経たず着くだろうと言われた。

普通の会話が出来て、思わず遙は唖然とした。相手から見れば、何らかの違和感があるのかもしれないと思っていたのにも関わらず、人々と幾らすれ違おうが、皆、頓着しなかった。

……獣人と気付かれるのかと思ったが、全ては杞憂に終わったのだ。彼らはまるで遙達が何ら変わりのない人間だと思い込んでいるようである。


取り合えず、現在地が分かって喜んだのは遙に他ならない。だが、それと同時に募る不安もあった。




「……」


電車は一定のペースで進んだ。線路は無限の道のりに思える程長く、先は背景に溶け込んで見えない。

遙は学生鞄を背中から下ろし、特に何を探す訳でもなく、中をゴソゴソと弄った。

そして、適当に数学や英語のテキストを取り出しては、ぼんやりと焦点の合わぬ目でそれを見詰める。

ぺらぺらとページを捲る度に、頭の中が砂嵐のようにザワザワと掠れた。その思考で、知らず知らずの内に口内が渇き、慌てて唇を舌で湿す。


――暫くはそんな事の繰り返しであった。


ガークとフェリスは遙の隣に腰を下ろし、二人とも何処か落ち着き無さそうに辺りを窺っている。


先程に比べれば大人しくなったのだが、客の視線はまだこちらにあった。窓に映った客の視線に、遙は気不味くなって瞑目する。

憶測でしかないが……皆の視線がこちらに来るのは、異国人も交えた3人組であるからだろう。

隣国であるロムルス出身らしいガークはともかく、世界の南半球に位置する国、オーセルに住むフェリスなど、珍しいと感じる人が多いかも知れない。

しかも、その遠方を故郷に持つ彼女が饒舌にも黎峯の言葉を立て板に水を流すように滾々と喋るのである。


彼等がはしゃぐのも、今まで絶対不可侵区域の中で閉じ込められていたからに他ならないだろう。

そう思えば、遙も彼等に口出しするような真似は出来なかった。ようやく、外の空気を吸うことが出来たことに、ガークもフェリスも満足げである。


遙はやがて、諦めたように数学のテキストをぱたりと綴じ、鞄の中へと仕舞い込んだ。

窓の外も、さっきから同じ様な景色にしか見えない。本当に進んでいるのだろうか、堂々巡りになっているのではないか? 時折そう思ってしまう程だった。


「ガーク、まだまだ遠いみたいだね……」


「当たり前だろ? といっても、たぶん今日の日付が変わるぐらいには着く筈さ……」


ガークは返事をすると同時に、欠伸をしてズルズルと背を席に預ける。フェリスは感慨深げに外を眺めていたが、次第に眠そうに目を細め始めた。

ガタガタと揺れる電車は確かに速い。だが、どうものろのろとしているようにしか感じなかった。


自分は、少々せっかち過ぎるのかも知れない。


しかし、母が家にいれば、最初に何と言えばいいのだろう。恐らく言葉では信じては貰えまい。

そうなれば……遙は己の目の前に両腕を翳す。

腕は熱く脈打つようにして疼いた。じわじわと血潮が沸き始める。遙は慌てて腕を下ろして集中を解いた。


(きっと大丈夫……お母さんなら……信じてくれる筈……)


幾度と無く言い聞かせ、俯く。遙を乗せた時の流れは枕木を踏み、風を受け止めながら進んだ。


少しばかりうとうととなりながらも、遙達は久々のゆっくりとした時間に何処か眠気を覚えずにはいられなかった。

遙は椅子に凭れ掛かり、周囲の目も気にせずに全身を弛緩させる。少しばかり仮眠でも取ろう。起きれば、家に着いているように願いながら。


電車は走った。駅に止まり、再び走り出し、幾つもの町を通り過ぎ……少しずつ、確実に目的地へと進んで行った。






――――――――






丁度星が瞬き始め、辺りは薄らと夕暮れ時になる。人通りの少ない商店街は、店長が錆びたシャッターを下ろす音だけが響き、途絶えた談笑は家へと持ち去られた。


その商店街の暗い路地で、赤煉瓦の壁に凭れ掛かりながら、不敵な笑みを浮かべる男がいた。

藍色のニット帽を被った男は、伸びた前髪が眦に掛かっており、その黒い隙間から赤い瞳が覗いている。皮肉に歪めた頬は少しばかり痩せ、余り体調が芳しくなさ気に灰色を宿していた。


男は、路地へと吹き込む風に煽られたニット帽を被り直し、顎に生えた無精髯を摩りながら、ちらりと街道の方を見る。

……一つの気配があった。波動は単調に、脈絡の無い平坦さを保っている。


「……おや? 随分と珍しいお客さんだ……ククッ」


男は掠れた声で笑った。

彼が視線を向けた先には、商店街には似使わぬ、白衣を纏った少女が立っていた。感情の無い瞳がこちらを凝視してきている。

男は反応を待つように黙視し、相手の少女は男と一定の距離を取ったまま、小さな声で切り出した。


「クロウ様の御命令です、チャド。ハルカを捕らえろと。私もその任務を充てられました」


男――チャドは意外そうに、よく見えぬ眉を上げた。


「ほぉ、そうか。あんたと組んで捕らえろと? だがな、ペルセ……だったか。俺はあくまであのハルカと遊ばせて貰うつもりだ。
クク……あのガキを散々甚振った後にあんたが捕らえるのなら、文句は無いんだがな」


「それは出来ません」


少女ペルセは言下に言い放った。


「クロウ様からは、出来るだけ無傷の状態で捕らえろと言われております。
例え、あなたであろうと、命令に逆らうのならば、容赦は致しません」


抑揚のない否定文を言い放たれ、チャドは蕭然と笑みを消した。

このような女は正直、面白みが無い……そう思ってしまう。人間的な感情が無いのだ。


いいや、『人間』ではないか……。自分もそうだ。チャドは自嘲気味に再度笑う。


「やれやれ……まぁいいだろう。だが、一つ条件を付けて貰うぜ。
俺とあんたは、別々に行動させてくれないか? 生憎、一人の方が動き易いんでね……」


「ハルカを傷つけないと、そう約束出来ればそれでも構いません。
しかし、任務の失敗はあなたの命に関わります。クロウ様から、あなたが任務に失敗した場合はキメラの被験体にしろと言われておりますので」


チャドは苦笑に切り替わった口元を隠すように手で覆うと、咳き込んだ。

あの女……やはり容赦の無い。鳶色の炯眼を持つ、冷厳な女を思い浮かべながら、口元が引き攣った。


ペルセは表情を変えぬまま佇んでいる。その様は塑像のように揺るがない。

チャドは長い前髪を掻き揚げ、溜息を吐いた。


「じゃ、変な狂獣人にされる前にしっかりやらせて貰うか。あんたは何処かで待機でもしておくんだな……クククッ」


そう言い残すと、チャドは路地を出て、溶解するように暗がりに沈んでいった。

ペルセは追おうとはせず、唯彼の行く末を見詰めるだけである。全てが影となって夕日の下に蟻の如く群がった。

チャドが去った後、少女もやがて、風と共に音も無くその場から消え去った。






――――――――






『明北地区……。本日の終点、明北地区へ到着しました……お忘れ物が無いよう、気を付けて……』


大儀そうな声が駅のホームに響く中、遙は寝惚け眼になりながらも、フェリスとガークを連れてホームへと降りた。

長い電車の旅は足腰に負担を掛け、四肢はギシギシと固く強張る。腰の痛みを和らげるように遙は患部を摩り摩り、短い階段を下りた。


「よっ……と。何だか、腰が痛いな……」


「長旅だったぜ。さすがに動かないと腰に響くな……さてさて」


ガークは一人でひょいひょいと改札口を抜け、遙達も急いでそれに続く。


「ちょっと長かったが、ようやくお前の家に着いたって訳だ! どんな母親か、お前の覚悟を見せてもらうぜ?」


「そ、そんなに可笑しな人じゃないよ……きっと」


「そうよ、ガーク。……でも、一般のお家に行くのが久々だからドキドキするかもね」


フェリスが悠々と伸びをしながら微笑んだ。遙は苦笑し、手をもじもじと交差させる。

……やっと、やっと帰って来れたんだ……


すでに外は夜の帳が下りていた。暗い夜空は小さな星が瞬いている。無論、人通りも少なく、終電にいたのは、遙達を含め、十数名であった。

冷たい風が吹いている。薄らと香る、懐かしい故郷の匂い。

二人を連れて駅の外に出てると、遙は辺りを見回す。家への方向を見定めるために。

幸い、家までの道のりはうろ覚えではあるが、分からない訳でもない。記憶の引き出しを開け閉めしながら、遙は左手の歩道へと足を運んだ。


「……いや〜、夜に着いて良かったかもな。遙の事を知っている奴も少なからずいるだろし、バレたら家に帰るどころじゃなくなるし」


「波動を辿る限りじゃ、人の気配は私達以外に無いね。誰か人間が近付いて来たら、私が察知してあげるよ」


ガーク達の言葉に、遙は少し心が楽になった。確かに、近所の人には顔も名前も覚えられている。

見付かれば、長い足止めを喰らってしまうだろう。遙は再び歩きだそうと、右足を前へと出すが――


……中々足が進まない。どうしたのか。遙は胸元を両手で押さえつけた。


「……う」


「どうした、遙? 車酔いでもしたか」


「違う。ごめんね……すぐに良くなるから」


ガークが訝しがるように聞いてきたが、遙は首を横に振った。

再び覚束無い足取りで、ふらふらと進む。黒い空は底なしの沼のように見えた。


(……怖い……)


弱々しく点滅する電灯に、小さな虫達が群がっている。パチパチと電気が爆ぜる音が耳に届く中、遙達は薄暗い道を声を潜めて歩いた。

人通りは無く、命の気配は全て家々に眠っていた。コンクリートの壁に身を寄せるようにして歩きつつ、突き当たりの角を左へ曲がる。


唐突に風景が変わった。


シャッターの下りた軒下が並ぶ、商店街だ。ほんの少しばかり、甘味の匂いが残っている。

だが、照明は落とされ、辺りは物淋しい程に漠然と闇に溶け込んでいた。

そして、その商店街の奥に見える見慣れた住宅街。記憶に違わない風景……間違い無い。


「もうすぐ、此処を真っ直ぐに抜けて……そこから右に曲がれば、私の家が見えると思う」


「意外と駅から近かったんだね。ガーク、そんな体で入ったら迷惑かもよ?」


「うるせー。電車に乗る前に洗っただろうが。……まぁ、ちょっと臭う所があるような気もするが……」


二人が談笑する中、遙は無言だった。胸中には駅に降りた直後と比べれば、期待よりも不安の黒雲が立ち込め、その重圧で胸が押し潰されそうだ。

どうしよう……信じているのだが、やはり怖い。化け物扱いされるのが……あまりにも恐ろしい。

胸に動悸を感じ、背筋が冷たくなる。それでも、止まってしまったら、帰ってきた意味が無い。遙は己を叱咤した。


「……もう少し……後少しで……」


遙達は角を曲がった。閑静な住宅街が開ける。他人の家の窓を見る限りでは、明かりが落ち、皆眠りに就いている事を示していた。

遠くで野良犬か、不気味な吼え声が耳に届く。なるべく足音を立てないように、じわじわと歩を進め――


――見えた。


暗がりに染まって、全体は把握出来ないけども、二階建ての、我が家……!

芝生の敷かれた広い庭に、少々錆が残るものの車四台は入れられる大きな車庫。生まれ育った、温かい自宅。

赤い煉瓦模様の外壁に 「東木」 と書かれた表札が埋め込まれているのを見て、ガークは感嘆の声を漏らした。


「ほ〜……お前の家は思ったより大きいんだな。金持ちって感じだ」


ガークは小声でそう呟いた。遙は返事をせずに、玄関へと足を上げる。


「……お母さん……」


遙は歯を食い縛ると、表札の隣に設けられていた鉄製の門を引いて、玄関に立った。

……指が震える。インターホンのベルを鳴らすのが、これ程まで恐ろしく感じたのは、初めてだった。

だが、此処まで来て引く訳にはいかない。ガークとフェリスが見守る中、遙は大きく深呼吸して、ベルのボタンへと手を伸ばす。

そしてゴクリと唾を飲み込むと、固く眼を閉じ、思いっ切り人差し指に力を込めた――






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