17










じんわりと、目の前に続く丘陵の稜線がくすんだ緑色に燃えている――まだ日も昇り切らぬ頃の荒地を、遙達は歩いていた。

足を踏み出す度に塵埃が舞い上がり、強風に煽られた砂が目に入って、ちくちくと痛む。長く強風が続けば、まともに瞳を開けていられない。


時折、吐息が微かに白みがかる。冬のように鈍色の雲がどんよりと立ち込めた空は、重々しく蒼穹を蝕んでいた。

だが幸い、体の状態は悪くなく、獣人となったお陰で環境適応能力は高まっているらしい、寒さは少々辛いが、体力的にはまだまだ余力が有り余っている。





「もう、大分進んで来ましたよね?」


遙が後方を振り返りながら歩を進める。


「そうだね。空は生憎、雲だらけで暗いし寒いけど……歩くのにはそこまで苦労するような天候じゃなくて良かった」


遙の隣を歩いていたフェリスは、空に向かって白い息をわざとらしく吐き出した。

彼女はレパードから貰った地図と太陽の位置を交互に見詰めている。

彼女が息を吐くと同時に、少しばかり二人の後ろから、大仰な溜息が上がる。その声の主は、何とも大儀そうに歩くガークであった。


「あ〜疲れた。俺はもうダメだ」


何事か、唐突にガークが根を上げた。だが、フェリスが怪しげで妖艶な笑みを浮かべながら睨んでくるのを見て、彼も慌てて起き上がる。


「冗談だよっ!! 何でお前達は俺の事信用しないんだ!」


「だってガーク信用ならないもの」


フェリスが口笛を吹いて、明後日の方を向いた。

ガークは当然、彼女の言い様が気に入らないらしい、歯を食い縛りながら悔しげに足元の土を踏みしだく。


「お前よりは信用されてるよっ!! この猫女!」


「わぁ! また走らせる気? 遙の家に着く前に汚れちゃうでしょ!?」


ガークは獲物に飛び掛るようにしてフェリスの背中を薙ごうとした。

だが、彼の攻撃は空を一閃。フェリスは刮目に値する程の速さでそれを避け、颯爽と走り出す。


「は、速い……置いて行かれちゃうよ……」


「おい、フェリス! 地図持ったまま先に行くなよ!!」


数十メートル先で止まったフェリスがヒラヒラと手を振ってくる。ガークは雄叫びを上げながら突進したが、遙は笑ってフェリスの後を追った。

すっかり皆元の調子に戻り、砂嵐もお構い無しに、ずんずんと先へ急いでゆく――


「良かった……ガーク」


遙が走りながらそう呟くのに、怒りに思考が滞った彼が気付く事は無かった。






――――――――






『私は他にもいる此処の獣人の支援をしなければならん。何より獣人の姿……皆を驚かせる訳にはゆかぬ。そなた達だけで行ってくるが良い』


今朝、レオフォンがくれた金の一部を見詰め、遙は獅子の言葉を思い出した。

昨日決めたこと……故郷へ戻るということを告げると、レオフォンは快く承諾してくれた。

彼は遙達が戻ってくるまでの間、建物の見張りも引き受けてやると言うと、資金まで手渡してくれたのである。


(レオフォンさん、一人で大丈夫かな?)


そんなレオフォンを一人、閑静な拠点に留守番させてしまった事を、申し訳無く思ってしまった。レオフォンが人間の姿になれたなら、皆で行く事が出来たのではないだろうか。

彼の姿を思い浮かべながら、遙は半壊している左右の擁壁を見詰めた。平らに広がる荒地からこの辺りまで来て、ようやく人工物が目に入るようになる。

おもむろに崩れ落ちたコンクリートの破片を一瞥すると、レオフォンに感謝するように遙は手を握り締め、先を急いだ。


自分達の拠点から出て、すでに二時間以上が経過していた。だが、歩き詰めだというのに、肉体は全く疲労していない。

獣人の肉体は、寒さも、暑さも、全く障害にならなかった。一晩ぐっすりと熟睡したら、体力は万全に整っていたのだから。


次第に一本道となった道路を進み、凹凸の激しいコンクリートを踏みながら延々と歩くと、急に先導していたフェリスが足を止めた。


「……この地図によると、此処になるね」


「はぁ? 何にもねぇぞ」


ガークの言うとおり、目の前にあるのは、瓦礫の山と砕けたアスファルトの道のみである。

取り立てて目立つ建物も無ければ、足元にはマンホール一つ見当たらない。

二人が困惑する中、遙は慌てて足元の砂を払いのけた。


「も、もしかして、この瓦礫に埋まっているんじゃ……」


「……マジかよ。面倒だなぁこりゃ。こんなのを掘り起こしていたら、日が暮れる所か一ヶ月は過ぎちまうぜ?」


三人が向ける視線の先には、それこそ小山並に積もった瓦礫が聳えていた。

とてもではないが、人手でこれを退けるのには相当な時間を要する。それに、怪我をしてしまう可能性も充分にあった。

遙とガークが少し草臥れた様子で座り込む中、フェリスはぱっと顔を上げた。


「ああ、此処は元々浄水場だったみたいね。道理で川の跡があると思ったわ。……ガーク、遙」


「んだよ。何か見付かったのか」


ガークの問いに、フェリスは指を鳴らした。


「下水道なんだから、一つが潰れていても、他の場所から進入することは出来る。無理にマンホールみたいな所から入ろうとしなければ良いのよ」


「何だそりゃ。まぁ、他に入り口を探せっていうのか」


ガークがやおら立ち上がると、遙もそっと足を伸ばした。

彼女の言うとおりだ。別の道は必ずある筈。遙はそう思って周りを見渡した。

そこは道路の砕けた瓦礫と、建物が倒壊したコンクリート片の山が幾つも連なっている場所であった。

道端はほぼ全てが瓦礫で押し潰されており、辛うじて平面を保っている場所も、荒地から流れた砂で覆われていた。

自分達が歩いてきた道には、マンホールらしい場所も無かった……となると、もう少し道を外れた場所にあるのだろうか。


「……普段からこんなの意識しなかったから、あんまり分からないや」


遙は足元に転がっていたコンクリート片を軽く蹴り飛ばした。

そのコンクリート片は他の瓦礫にぶつかり、小さな音を立てながら、遙の左手に広がる荒地へと転がり落ちていく。

コンクリート片が転がった先は、今立っている場所よりも地盤が低く、丁度、巨大な溝のような形になっていた。

その形を見る限り、川……というべきだろうか。すっかり干上がって瓦礫が侵食してしまっているが、遙はそれを見て目を瞬いた。


「もしかして……」


遙は足場に注意しながら、坂を下る。その様を見たガークは眉を上げた。


「おい、遙! 何処行くんだよ」


「大丈夫、そう遠くには行かないから。もしかしたら、入り口が見付かるかもしれないんだ!」


遙は大きな声でそう叫び返すと、瓦礫を跳び越えて、干上がった川へと足を進めた。

瓦礫と砂で埋められているが、丹念に探せば……遙は川縁に添って歩き、出来る限り小さな瓦礫を退かして進んだ。


十メートル程歩いた遙が、おもむろに巨大な木片を退かすと、そこには半月状に開いた穴が見付かった。

半円の大きさを見る限り、ぎりぎりガークでも通れそうな大きさである。遙が目を凝らして奥を見てみると、意外と深い場所まで繋がっているようだ。先は見えない。


「ガ、ガーク、フェリスさん!」


遙は叫んだ。その声に反応して、上を探索していたガークとフェリスが振り向く。


「下水道だよッ、きっと奥まで繋がっている!」


「何だって!?」


ガークは遙の声に反応して、一気に坂を下りた。

ガラガラと荒地の小石も巻き込んで降りてきた彼は、すぐさま遙の元へと走り寄る。フェリスも彼を追ってやってきた。

遙が慌てて指差す所には、半分埋まっているものの、確かに下水道らしい穴が開いている。ガークは唸った。


「ほぉ、河川の下水道か。これぐらいなら、掘り起こせるよな?」


「そうね。穴掘りなら、ガークの方が得意よね」


「うるせぇッ! サボるんじゃねーよ!!」


二人は口喧嘩をしつつも、近くにあった瓦礫や金属片を使って、穴を掘り進め始めた。

さすがに獣人の筋力というべきか、あっという間に砂利と瓦礫が退かされ、半円だった穴はぽっかりと空洞を露にする。

幸い、奥まで瓦礫が進入するようなことにはなっていないようだ。これぐらいの大きさなら、通ることも出来るだろう。


「ふぅ、此処から入って、奥に行けば良いんだな?」


「ええ。ちょっと狭いし、下水の匂いがキツイだろうけど、この際贅沢なんて言えないわね。……遙、大丈夫?」


フェリスに気遣われて、遙はコクコクと頷いた。


「は、はい。大丈夫です」


遙は少し緊張気味の顔で答えた。何と言っても、下水道なんて通ったことも無いのだ。

一方で、ガークは洞穴の中をニヤニヤしながら見詰めている。


「それにしても、こりゃびっくりだな。絶対不可侵区域の下水道なんてモンが、外まで繋がっているとは予想外だったぜ」


ガークは顎を擦りながら奥に目をやる。遙も釣られるようにして下水道を覗き込んだ。

洞穴からは、随分と陰鬱な空気が吐き出されている。まるで巨大な生物の吐息のように、薄らと生温かい気体が遙の顔を舐った。


「映画みたいだぜ ……これが、絶対不可侵区域から抜けられる唯一の地下通路って訳だッ!!」


ガークは自慢でもするかのように胸を反らした。遙は無論、苦笑するばかりである。

レパードがくれた地図のおかげで、こうやって外に出られる可能性を秘める下水道を発見したのは確かだ。

此処絶対不可侵区域は、一般人はもちろん、関係者すら足を踏み入れることは許されないとさえ言われているのだ。

正門から出ようとしても警察に捕まる上に、他の場所から出ようにも、厚いコンクリート壁に囲まれていて、空でも飛ばない限り無理だろう。


フェリスは腰に手を当てて、苦笑を漏らした。


「ふふ、まぁ脱出劇みたいなものね。……この調子じゃ、ネズミまで出てきそうだけど、遙、大丈夫?」


フェリスが揶揄するように言った。確かに自分の家に行くには、此処しか道は無い。

これ程までに街が崩壊しているのだ、空を飛べるような交通機関はあったとしても、壊れて使い物にならないだろう。

ある意味、外に出るには絶好の通路に、遙は口を引き締めた。再び生温かい風が全身に吹き付ける。


「ネ、ネズミは平気です。お母さんとかがよく見せてくれましたから……それに、家にも」


「……お、お前の家はゲテモノだらけなのか?」


ガークがしかめっ面を作り、遙を見下ろした。遙は抗議したそうに唇を突き出し、不服めいた唸り声を上げる。


「……来れば分かるよ……」


遙の溜息交じりの声が、下水道の奥に反響して行った。




……中へ身体を入れると、少々かび臭さがあり、外に吹き出す風とは違って、ひんやりとした空気が頬を刺した。

いよいよ外に出られるチャンス、ということで興奮したガークが先頭になって身体をぐいぐいと進めていく。

管の中は遙とフェリスが匍匐前進ですんなり進めるものの、ガークの場合は身体がやっと入る程の大きさだ。時間が経つにつれ、ガークはその速度を落としていった。


「……ちくしょー、何処まで続くんだこの狭いとこはよぉ」


「ガーク、早く前に行ってよ」


フェリスが不服げに言い飛ばした。ガークは唸り声を漏らす。


「あのなぁ、てめぇら女は簡単に通れるかもしれないがよッ、俺の体格じゃそんなに早くは行けないんだ!」


「全く、そう言うなら最後に付いてくれば良かったじゃない」


フェリスが呆れて溜息を漏らした。

最後尾を付いて行っていた遙は、二人の会話に少し気を緩める。視界は暗く、すでに背後の光は殆ど見えない。

下水の僅かな臭いと、管の閉塞感が心から恐怖を引き出していたのだが、仲間達の会話を聞いていると、思わず表情に笑みが浮かんだ。


「もうっ、こうなったら嫌でも進ませてあげるわ!」


遙が安堵する一方で、フェリスはいよいよ忍耐が限界を迎えてきたのか、少し低いトーンで声で叫んだ。

言下、フェリスはその右手に生える扁爪を鉤爪に変化させると、思いっ切りガークの太腿に突き立てる。


「ぐわッ!! やめろッ、てめぇここを出たら覚悟しとけよ、チクショウ!!」


ガークは悲鳴と共に素早く前に進んだ。フェリスの薄笑いが耳を霞め、彼は背筋に悪寒が走るのを覚える。


「どうせ此処を出たら、私を捕まえることも出来ないわよ。……さ、行きましょうか、遙」


「ッあ、はい」


ガークには悪いと思いつつも、思わず遙は噴出してしまった。



やがて、管を抜けると、一つの巨大な通路に差し掛かった。

ガークも背伸びが出来る程の広さを持ったこの空間が、合流式下水道、だろうか。真っ暗で、殆ど視界が利かない。

ガーク達の拠点から持ってきた懐中電灯をつけてみると、下水道の壁が照らし出された。


長い間、水が流れなかったために、汚水の跡が染みとなって残っている。天井には束になったパイプが走っていた。

思ったより広くは無いが、充分に身体を伸ばして通れる広さだ。先程よりはずっと楽に進めるだろう。


「立って歩ける分、さっきよりは楽だね。問題は、どっちに進めばいいか……」


遙が左右に広がった道を交互に見ながら、小さく溜息を漏らした。

フェリスは遙から借りた懐中電灯を地図に当てる。


「そうね、地図にはそこまで詳細なものが書いてある訳じゃないから。はっきりは分からないけど。
最初に通った管の位置からすれば、左手に進むべきかもしれない」


「じゃあそうと決まったら、とっとと行こうぜ。こんな暗いところにいつまでもいたら、気が滅入っちまう」


ガークは欠伸をして言い放ち、一人でズカズカと歩き始めた。

フェリスと遙もそれに続く。


三人の声が通路の奥まで反響して駆けて行く。一行は軽い談笑を繰り返しながら、悠々と進み、一時間余りが経った。

相変わらず光は見えない。だが、視界も徐々に闇に慣れ、遙の瞳は知らず知らずの内に赤く光っていた。


ふと、ぴちょん……と水滴が落ちるような音が耳に届いた。その音に遙は肩をびくりと揺らし、瞳孔が縮むのを感じる。

……薄らとだが、水の匂いもする。と言っても、美しい清流の匂いとは懸け離れた、下水の腐乱臭に近い悪臭であった。


「……出口が近いのかな?」


遙は顔を顰めながら呟く。


「……少し、急いだ方がいいね」


遙の隣で、フェリスが顔を上げてそう呟いた。彼女の一言に、二人共振り向く。


「何だ、敵が来たのか」


「いや、今は気配が無い。確かに、敵が来ないとは言い切れないけど、ちょっと酸素的な問題ね」


フェリスは苦笑しつつ言った。

下水の臭いも酷いが、彼女の言うとおり、此処はほぼ全ての下水管が塞がっている。

長時間いれば、呼吸がし辛くなりそうだ。それに、下水道となれば、様々な感染症を貰いかねない場所でもある。

今ならまだ大した支障は無いものの、このまま出口が見付からなければ引き返さなくてはならない可能性も出てくる。


「場所が分かりづらいけど、今までの分岐を見る限りじゃ、このまま真っ直ぐ行けば大丈夫かな?
――と、遙が足を汚したら大変だね。何たって、お家に帰るんだから。ちょっと、揺れるけど……遙、私の背中に乗らない?」


フェリスが安心させるように、笑って手を差し出してくる。遙は眼を見開いた。


「え……あの……その」


フェリスの申し出は有難いが、自分で歩きたいという気もあったし、皆に迷惑をかけるのは嫌であった。

遙は断ろうとしたが、興に乗ったフェリスに無理矢理手を握られ、背中に乗せられる。

渋々フェリスの背に捕まるが、思いの他温かく、また、安堵を覚えた。遙は思わず母を彷彿しそうになり、ぎゅっと彼女の肩を握る。

フェリスは遙を背負い直しながら、まるで何も負ぶっていないかのように軽々と歩いた。


「さて……ガーク。地上まで競争しない? こっちは遙を背負っている分、少しばかりスピードが落ちるし、良いでしょ?」


「……まぁ、悪くは無いが……途中で蹴ったりするなよっ!」


「もちろん。だけど、途中で置いていく事はあるだろうけどね!」


フェリスが叫んだ言下、遙の顔面にぶわっと風が吹き付けた。黒い頭髪が乱れる。

先程まで隣にいたガークはあっと言う間に点になり、深い闇へと溶け込む。


速い……! まるで高速道路を車で走っているかのような感覚――

ガークも負けじと付いて来る、フェリスは軽やかに障害物となるゴミや折れたパイプ、瓦礫を踏み越し、どんどんスピードを速めた。


ついに下水が漏れ出す所に出たが、フェリスは水面から突き出しているゴミ類の上を飛び越え、今だに水に足を浸けていない。

それにその軽い足音すらも、耳に届かない。水分を含んだゴミ類を踏みつけているのにも関わらず。もしかしたら水音にかき消されているのかも知れなかったが。

唯、ハッキリと耳に届くのはガークの怒声と派手な水飛沫の雑音である。彼の猛進に驚いたか、ネズミの影があちこちへと逃げ回っていた。


遙は振り落とされないように、ちらりと青年の方へ目を向けてみると、ガークはバシャバシャと汚水を蹴散らし、汚れるのも気にせず疾走して来ていた。


「ちょ、ちょっと……ガーク」


「あははッ、ガーク、遙の家に入る前に体洗わなきゃいけないよ!」


「うるせぇぇぇぇ!! どうせその辺りの公園で洗えばいいだろうが!!」


そんな罵声の張り合いが続き、あっと言う間に下水道を進んで行く。遙は振り落とされないように掴み、押し付ける風圧に耐えた続けた。

ふと……下水の嫌な臭いではなく、新鮮な山の空気のような草木の芳香が鼻腔を掠めた。焼け付いた喉にスゥ……と安らぐような感触が撫でる。


遙は目を開いた。暗闇に長くいた余り、眩しく感じられた。陽光が網膜に強く残り、ぼやぼやと青く点滅して視界が悪くなる。

外の香りが、空気が胸を満たす。途端、フェリスが大きく跳躍した! 頭上に広がる空がどんどん近くなる。




ぽふっ……何か草を踏むような音がしたと思うと、軽い衝撃が体を持ち上げた。

冷たい風を全身に感じる。次第に光に目が慣れると、雑木林が見えた。

青々しい若葉を茂らせた木々は、その枝を誘うように遙の眼前に突き出してきている。


「此処は……?」


振り返ってみると、そこには半分が崩れ落ちた廃工場のようなものが建っていた。

スレート製の外壁は破れており、破片が辺りに散っている。自分達が出て来た所を見ると、どうやら傍にあったマンホールから飛び出してきたらしい。

どうも、蓋は最初から外されていたらしく、それを目印にフェリスは跳躍したようだった。


「よっと、何だか建物も崩れているし、まだ絶対不可侵区域なのかしら? でも、だいぶ進んできたから……それに、植物がこれだけ生えているとなると」


フェリスの言うとおり、廃工場の裏には雑木林が生い茂っている。絶対不可侵区域なら、見られない光景であった。


「はぁッ、クソッ、てめぇらだけ先に上がりやがって」


ガークは息を切らせながら、マンホールを這い上がってきた。登るために獣人化したのか、その容姿は狼獣人となっている。

獣人の体力ならではだろうか。よくあの高さから登れたものだ。遙は目を丸くすると、ガークは一気に跳躍して、マンホールから飛び出した。

下水で濡れた彼がばたばたと身体を震わせる中、フェリスは少し先に足を進める。


「……人の気配がする。これは、獣人じゃ無い」


「何だって!?」


ガークはすぐに獣人化を解きながら、フェリスに聞き返した。

遙も彼女の言葉を聞いて、すかさず雑木林の方向へと向かう。二人は遙の行動にはっと振り向いた。


「おい、遙! 何処へ行くんだ!?」


ガークが声を上げる中、遙は獣道を颯爽と駆け、小さな山を一気に上っていく。

頬が枝で擦られ、掠り傷が生じたが、そんなことも気にせず……遙は山の中腹辺りまで駆け上がった所で、太陽の光が漏れている場所を見つけた。

木漏れ日がちらちらと見える。遙は肩で息をしながら、ゆっくりとそこへ向かった。

足元の感覚が鈍い。僅か十数分足らずで駆け上がってきた己の体力など頭に無く、唯、木々の先にある光景を確かめたくて……遙は足を進めた。





次の瞬間――世界が開けた。


「あ……あぁ……町だ……!」


遙は見た。命の溢れる地を……自分の故郷を。

幾つもの住宅が連なり、所々に背の高いビルが突き出している。雨上がりのように遥か遠方まで空気が透徹し、山脈も視界の端に捉える事が出来た。

それらを視界に収めると同時に、無意識に涙が滲み出し、顔が熱くなる。胸が甘い感動で一杯になった。


思わず遙は駆け出し、肩で息をしつつようやく遙に追いついたガーク達の度肝を抜く程の俊足で見えなくなった。

フェリスも慌てて後から続き、ガークも坂を転げ落ちる勢いで走り出す。それでも遙は止まらない。その表情は満面の笑みを湛えていた。


「私の……私の町だ! 帰って来たんだ!!」


韋駄天の如く走る遙は大声でそう叫んだ。絶対不可侵区域では見れなかった野鳥も、昆虫も……人々も……!


「ま、待てよ遙ぁ!! お前の町って言っても、黎峯も一つの都に幾つもの地区があるんだろ!?」


「……あっ!」


遙は現実に引き戻されたように急ストップした。……第一、よく見れば、知らない建物だらけである。

ガークがぜぃぜぃと息を切らせながら、遙の後ろに追いついて来た。フェリスもひょいひょいと坂を飛び降りてくる。


「そうだった。私の家は、鳳楼都(ほうろうと)っていう街の……明北地区。でも、鳳楼都に入れば、すぐだよ! 鳳楼都の、東側にあるんだ」


「ほ〜……じゃあ、レオのおっさんから貰った金で公共機関を乗り継いで行かなきゃいけねぇだろ?
取り合えず人を探して、現在地を聞こうぜ。それから進めば良いだろ?」


額に浮かべた汗を拭いつつ、ガークが切れ切れに喋り、フェリスは見下すように青年を見詰めた。


「そうだね。ガークもそういう所は頭の回転がよくて……」


「なんだとっ!! 俺はいつでも回転がいいよ! ……ったく、まぁ、何よりも久々だぜ、こうやって街を見るのはよ」


ガークもフェリスも安堵したような笑みを漏らしていた。彼等にとっては、どれほど待ち望んだ光景だっただろうか。

少なくとも、遙も同じ気持ちだ。広い町……生まれ育った町に近付いている。後少しで……!


「ガークも、フェリスさんも早く! 行こうよ!!」


遙は二人を呼ぶように、坂の下で大きく手を振った。






――――――――






「ハルカ達が外へ出た……?」


クロウは、椅子から立ち上がって聞き返した。

まだ幼い顔立ちを残した、少女の研究員は、クロウの言葉に静かに答える。


「はい。二人の同行者も一緒にいるようです。予測される脱走ルートは下水道。……どうやら、我々が発見していない下水道が存在したようですね」


少女は淡々と答えた。クロウは舌打ちをすると、腕を組んだ。


「浄水場の管理者が隠蔽していたのね。街に出られると、少し厄介なことになる」


そう言いつつ、クロウは指を鳴らした。

すると、その音に呼応するかのようにして、部屋の闇から一人の男が姿を現す。

藍色のニット帽に、黒いレザージャケットを纏った容姿は、この施設とは不釣合いな姿であった。


「チャド。あなたが躍らせてくれた、あの獣人共は失敗したと言っていたわね。……ふふ、今度は、あなた自身で遙達と踊ってくれるかしら?」


「クク、いいのか、そんなことを言ってもよ」


クロウの冷たい言葉に、チャドは下卑た笑みを漏らした。


「俺はどの人間が死のうが興味は無いぜ。もちろんあんたらも含めてだ。街にゴロゴロいる一般人を巻き込んで、殺さない自信は無いぞ?
それでも良いというのなら、俺は喜んで行かせて貰うが?」


「出来れば最小限に抑えて欲しいわ。私の手の届く工作員の仕事が増えれば、他の幹部に感付かれる可能性がある。
……それと、立場を勘違いして貰っては困るわよ、チャド?」


言下、クロウはチャドの右腕を掴み、女性とは思えない力で前へ押し倒す。

咄嗟に抵抗しようとしたチャドの背中に足を押し付け、彼の左手を背後に捻った。


「……これは命令よ。あなたが死のうが関係無いけど、ハルカに死なれたり他の奴らに奪われたりでもしたら、こちらは困るわ。
私達の出す命令を果たせなければ、再びモルモットとして飼育籠に押し込んで上げるわ」


地面に身体を付けられたチャドは、殺気を覚えたが、その顔から余裕の笑みが消えることは無かった。

クロウは鼻を鳴らして、手を離してやると、チャドは素早く起き上がる。


「おっかないねぇ。まぁ、あんたに殺される前に、とっとと命令を果たしてしまいますか」


そう告げると、チャドは少女を避けて部屋を出て行った。

その様を悠然とした態度で見送っていたクロウは、部屋に残った少女を見て笑みを浮かべる。


「ペルセ。あなたも付いて行きなさい。あの蝙蝠だけではハルカと遊びかねないからね。……出来るだけ無傷で、ハルカを捕らえて来なさい」


「はい、クロウ様」


ペルセと呼ばれた少女は一礼をすると、そっと部屋を後にした。

一人部屋に残されたクロウは、静かに椅子に座ると額に指先を押し付ける。


(……ハルカが外に出た。利口であれば、すぐに絶対不可侵区域へ戻ってくるでしょうね)


クロウの口元には冷笑が浮かんでいた。



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