遙が屋上から駆け下りて、どれ程の時間が過ぎただろうか。空が、郷愁を混ぜ合わせながら燈赤色に滲み始める。

雲はその色に掠れ、灰色に彩られながら止まったように遅々とした動きで流れていった。

夕日の色は明々とし、皮肉にも眩く輝いている。生命の灯火が失われた廃墟も、空虚感の漂う荒地も、自分の姿さえもが、全て黄昏に沈んでいく。


ガークの視線は地平線に沈んでいく太陽を追っていた。

網膜に明かりが焼きつき、目の前がぼやける中、遙の憤った顔が静かに浮かび上がる。


『……私の家族との絆を……断つような事言わないでよ……!』


遙の悲痛な言葉を反芻し、ガークは再び疼き始めた頬の擦り傷に、そっと手を当てた。

この掠り傷は、遙の怒りが込められた平手打ちによって生じたものである。涙を滲ませた顔に、やり場の無い怒りを表した遙の表情が、痛みと共に何度も思い返される。

火傷のようにじりじりと痛む擦り傷は、遙が本気で叩いた事を物語っている。長く続くその痛みに、ガークは舌打ちした。


「……お前までが、俺みたいに帰る場所が無くなったら、話にならねぇだろが……」


ガークは不貞腐れたように唇を突き出して、独白を漏らした。直後、日暮れの冷たい風を全身に受けたが、燻る気分が晴れる事は無かった。

脳裏に浮かぶのは、遙の沈痛な面持ち、それから怒りに瞳をぎらぎらと燃やす少女の姿。


「ったく……俺も好きであんな事言ったんじゃねぇよ……!」


ガークは眉を顰めると、悔いるように吐き捨てた。






――――――――






――ガークが自宅に帰ったのは、GPCの研究所から脱走した直後だった。

何が何でも帰る! そう言い放ち、こちらが止めるのも聞かずに……

ガークは、自分の家をたった一人で探り回り、十数日の時を経て、ようやく自宅を見つける事が出来たという。


ガークは一人暮らしであった。両親がいない訳ではなかったが、顔に似合わず美術が好きだったため、力仕事を選ぶ訳ではなく、ガークは画家になる事を望んだ。

自分勝手な夢であったからか、家訓を重んじる父との喧騒が絶えず、結局ガークは家を出た……一人で生きる事を望んで。


周囲の反対も押し切り、彼が美術系の大学に進学すると同時に、出会ったのは一人の少女だった。

美しいというよりは、可愛らしいという外見で、柔らかい外見とは裏腹に芯だけは強く、頑固な所もあった。

ガークにやたらちょっかいを出して来たり、または、彼の自宅にまで来た事もあった。

……年も同じ二人だったため、すぐに打ち解け、授業の課題も、二人で行動する時間も日増しに増えていった。


だが、そんな幸せな日々が続いたある日、仲の良い少女と別れてから、自宅への帰宅路を通っていた時、突然黒服の男に襲われた。

人通りの少ない路地。風貌から見て強盗かと思ったが、彼らは明らかに金目の物を盗もうとしている様子ではなかった。

相手の言い成りなるような性格ではないガークだったが、抵抗しようにも相手は複数で、最終的には気絶させられる羽目となった。


そして、目覚めたら、見ず知らずな場所。研究所のような所ではあったが、そこが全ての人生の歯車を狂わせる切欠となってしまった。


狼の容姿と能力が付加された、獣人という存在にされて……

そして、彼が獣人になってからずっと会いたかったのは、大学で出会った彼女に他ならない。

同じ痛みを分け合った獣人の仲間達と出会って、月日が経っても、人知れず心の中では郷愁の思いが渦巻いていたのだ。



……やっとの思いで彼女と会ったのだが、彼女はガークの見せた獣人の姿に血の気の引いた顔をして……彼の目の前から逃げ出した。

あれ程仲睦まじかったのにも関わらず……裏切られたような気持ちに沈んでいる暇も無く、ガークは慌てて彼女の後を追った。


――しかし、彼女の走って行った先で見たものは、悲惨な事故現場となった。

彼女は唐突に丁字路から飛び出し、向かって来た車に撥ねられて亡くなってしまったのだ。


彼と再び出会った時、その顔は以前とはすっかり変わり果てた表情をしていた。子供のような顔立ちから、妙に大人びた容姿に。

どれ程の自責の念に駆られた事だろうか。それっきり、ガークは二度と家に戻ろうとは口走らなかった……












フェリスの話を聞き終えた遙は、言葉を失った。


「……多分ガークは」


フェリスは静かな談話を終え、溜息交じりに遙の頭に手を置く。


「遙が自分と同じ様に傷付いてしまうのが、嫌なのよ。
ガークは単純だから、自分のせいじゃないのに……本当に悪いのは、GPCの連中なのに……ね」


「ガーク……」


遙は申し訳無くなった。怒りに任せてガークに怒声を放ち、殴ったこと。彼は彼なりに事情があったのである。

どんなに後悔しただろう。知らなかったとはいえ、浅はかな事をしてしまった。遙は目を強く閉じて、唇を噛む。

横暴でも、彼なりの気遣いだったのだ。自分と同じようになって欲しくない、大切な人を失わせたくないと……


遙は暫く瞑目すると、フェリスの手から頭を離して、そっと立ち上がった。


「私……」


遙は胸に手を当てると、疲れたように声を出した。


「ガークを探して来ます……」


フェリスは止めなかった。微笑んで一言 「気をつけて」 と言うと、遙を目で送った。

遙は振り返らずに走り、廊下を駆け、階段を駆け上る。ガークの波動の残りを捕らえ、自分の持てる全速力で……




『ガークは単純だから……』




フェリスの言葉。確かに彼は直情径行な男だ、だからぶっきら棒に心配してくれたのだろう。

謝らねばならなかったが、同時に、自分の選ぶ道を捨てる気にもなれなかった。

例え、彼に何を言われようと、自分の決断を変えることは出来ない。……故郷へ戻るということを。


「ガーク……!」


遙は屋上に向かう扉に駆け付け、すぐにドアノブを握った。

しかし、開かない。遙は鉄製の重い扉に思いっ切り体当たりをしたが、それでも扉はびくともしなかった。

もしや、鍵が掛けられているのだろうか。……いや、反対側から、壊されているのかも。遙は喉を鳴らした。

恐らくガークの仕業だろう。彼の意図が分からないでもないが、このまま何も言わずに出て行きたくない。


(この先にいるのは……確かなのに。他に屋上へ行く道は……)


遙は一旦階段を降り、三階の廊下の左右にある扉を交互に見て、本能的に『波動』を辿った。走るに連れて……匂いも僅かに感じ取れるようになってくる。

やがて、遙は廊下の一番端にある、突き当たりへ出た。壁に張られた窓が一つ開いており、風が吹き込んで来ている。

その先に、ガークの気配があった。もしかして……遙は窓から身を乗り出し、上空を仰いだ。


雨樋が、屋根に向けて走っている。手で揺らしてみると、意外と頑丈に作られているらしく、微動だにしなかった。

下を見ると、地面が遠い。二階建ての建物とはいえ、地上への距離は、優に八メートルはあるだろう。思わず眩暈を覚えかけた。


だが、こちらから行かない限り、ガークは戻って来ないだろう。遙は足元に注意しながら窓縁に足を掛けると、雨樋を掴んで屋上へと登り始めた。








「……」


ガークは背後から近付いてくる気配に、むっつりとした表情になった。

複雑過ぎる……この余りにも混沌とした波動は、不可思議なキメラ獣人である遙に他ならない。

遙が来ないように扉を鍵を破壊したのだが、彼女は何らかの方法で此処にやってきたのだ。

一人で近付いて来るのを感じると、どうやら仲間の手を借りた訳でも無さそうである。……無理をしてまで、此処までやってきたのだ。


遙はようやく登り切ると、屋上に積もった砂利を踏み締め、ガークの背後に立つ。


「ガーク……」


「ったく、無駄に根性のある奴だぜ。――フェリスから聞いたのか?」


ガークは怒ったように呟いた。遙はびくりと肩を揺らしたが、引き下がる事は出来ない。

遙は無言でガークに近付いた。彼は振り返らない。……夕日に映える、まるで石像のように鎮座している。

ザリ……ザリ、一歩一歩と遙はゆっくりと近付いた、その足取りは酷く重い。


だが、遙の足は唐突に止められた。ガークが振り向いたのだ。

真鍮のように煌く金の瞳が、こちらをじっと見据える。


「……ごめんねガーク。急に大声上げたりして……」


「……気にしてねぇよっ! それより、お前の顔……何が何でも帰るつもりだろ?」


遙は頷いた。因業にも、口を噤んだまま、ハッキリと縦に首を振る。

見た目に合わない芯の強さ。ガークは大きな溜息を吐くと、視線を逸らした。


「……化け物扱いされても、か?」


「それでも、覚悟は出来ている。……例え、万が一見捨てられても、私には帰る場所……『此処』があるもの……!」


ガークが呆然とこちらを見詰めてくる中、遙は一段と目付きを鋭くして続ける。


「……ガークだって、そうでしょ? 例え、大切な人が亡くなってしまっても、此処に立っている。……何もかもに絶望してしまっているのなら、もう此処にはいない筈でしょ?
此処が……あなたの帰る事の出来る場所だから……同じ仲間がいて、いつか必ず人間に戻れる筈だと信じているから……。そうじゃないの!?」




遙は言い放った。その声はガークの肉体を電撃のように駆け巡る。彼女が深奥に秘める強靭な意志……。

青年は目を見開いた。初めて会った時と、まるで違う印象に、別人を見ているような気分だ。

遙は、何処かカリスマ性を持つのかも知れなかった。人を動かせる程の……ガークは俯いて、見えないように苦笑した。


「ちっ……予想以上にませたガキだぜ」


ガークの言葉にも動じず、遙は静かな視線を向けてきている。

人の深層心理を直接射抜くような、真摯な眼差し……ガークは目を細める。その瞳が揺らいだ。


遙には無用な心配事だったか。ガークは心の中で思っていたことが杞憂に終わったのを感じ、そっと溜息を漏らす。


「……こうなったら、な。――俺も付いて行くぜ」


「え?」


予想にもしなかった言葉を、ガークは呟いた。思わず耳を疑いそうになる。

そのためか、遙はまるで素っ頓狂な返事しか出来なかった。急に表情を緩めた遙に、ガークは苛立ったように立ち上がる。


「だからっ! 俺もお前の家に連れて行け! ……お前が信頼する人を見せてみろよ。どんなに信頼出来る友人や両親がいるか。
くっくっく、戻ったついでにお前の部屋も覗いてやるぜ? お前の私生活とやらもちょいと見てみたいからな」


「!! ば、馬鹿! 何でそんなこと……」


遙の顔は大量のカラシでも食べたかのように真赤になる。見る見る内に眉間に皴が寄り、ガークを睨みつけた。

だが、ガークは頓着しない。やはり、どんなに強い意志を持とうと、遙の精神は子供のままだ。急に暗雲が吹き飛んだかのような身の軽さに、ガークは喉を反らして笑った。


「ははっ! お前って本当にからかい甲斐のある奴だよな! そんな鈍足で付いて来れるなら、付いて来てみなっ!」


「あっ……!」


遙が瞬きする程の速さで、ガークは躊躇いも無く屋上から飛び降りた。

急いで下を見たら、彼は器用にも開いた窓縁を掴み、ニヤリとこっちに向けて笑うと、ひょいと屋内に入った。
 

遙は悔しさのあまり唸り声を上げると、来た時と同じように、慌てて雨樋を使って降り始める。


「もう! 折角心配して来てあげたのに……」


吹き付ける強風が全身を煽り、足元がぐらつく恐怖に、半ば震え声で悪態を吐く。

だが、その顔は先程に比べると幾分安らいだ様子であった。薄らと頬を淡紅色に染め、口元には微笑を浮かべている。


遙は誰にも聞かれないように、そっと口だけを動かして呟いた。


「ありがとう」と。



:第二章へ続く



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