遙は一頻り泣き、ようやくレオフォンの胸から離れると、赤くなった目を隠すように俯く。

まだ多少しゃくり上げているが、大分治まった。遙は手に付いた涙を服に擦りつけ、溜息を吐く。


「楽になったか? 見た所随分疲れて居るのだろうし、一眠りしたらどうだ?」


「い……いえ、もう大丈夫です。すいません……」


遙は唾を飲み込み、レオフォンの姿を見る。今し方しがみ付いていた彼の見事な白い胸毛はくしゃくしゃになってしまっている。

遙は殆ど初対面でいきなり抱きついて泣きじゃくった事の恥ずかしさに、レオフォンから視線を逸らし、小さく唸った。


「……何だか、少し、不思議な気分です」


「お互い災難だったな、こんなことになってしまって」


「い、いえ……そういえば、レオフォンさんは人間の姿には戻らないんですか? 身体の方は……」


今思えば、此処へ来た時からレオフォンはずっと獣人化したままである。

自分のように中途半端な獣人化でさえ、体力を大幅に消耗してしまうというのに、彼は平気なのだろうか。

すると、遙の問いに、レオフォンは目を細めた。


「実は、私の身体はもう人間に戻ることは出来ないのだ。獣人の失敗作の内の一種類でな。
『常時発現型』という、常に獣の遺伝子が発現し続けている形になっているのだ。まぁ、体力に関しては変身をしない分、消耗も少ないさ」


「そんな……」


淡々としたレオフォンの答えとは裏腹に、遙は愕然とした。


彼の衝撃的な言葉に、自分の肉体が疼くのを感じる。……人間に戻れない。

今、自分は少なくとも人の姿をしている。それだからこそ、まだこうやって他人との会話も出来るのだ。

仮に獣人化したまま戻れなくなってしまったら、それこそ、自分の顔を見ることは出来ない……同じ獣人同士でさえ、自分の姿を見られることを拒んだだろう。

だが、レオフォンはこの姿になる事も出来ないなんて……。どれ程の絶望と葛藤があったのだろうか。遙には知ることが出来ない。


そんなことを軽々しく聞いたことに、遙は申し訳無くなって俯いた。

しかし、その様子を見たレオフォンは責めようとはせずに微笑を浮かべる。


「気にすることはないよ。私とて、そう辛い訳ではないさ。何しろ、仲間がいるということだけは確かだからな」


「仲間?」


遙は顔を上げた。


「ああ、獣人の仲間が増えるというのは、GPCの拉致が進んでいるということだから、あまり芳しくは無いのだろうが……。
それでも、こうやって、お前のように私と普通に接してくれる者がいるだけでも有り難い」


レオフォンの穏やかな言葉に、遙は目を瞬く。

確かに、それは自分も感じたことだ。此処では、獣人であるということを隠す必要は無い。

皆が皆、同じ境遇である。GPCに拉致され、人間の生活を奪われた挙句、異形の容姿を植え付けられ……一人だったなら、耐えられることではない。

仲間がいるからこそ、このようにして比較的落ち着いた形でいられるのだ。独りであったなら、平常心すら保てなかっただろう。


今は獣人である仲間がいる。――しかし、一度、この外へと出たら、どうなるだろうか?

自分は獣人だ。見た目が人間であっても、その本能が解き放たれれば、人間とは逸脱した存在へと変わってしまう。

果たして、普通の人間が獣人である自分を今までのように見てくれるかが、遙にとって気がかりであった。


(……けれど)


遙は眼に力を込めた。


「……いきなり言うのも難ですが、私は、やっぱり帰りたいです。家へ、戻りたい……
自分が、獣人という存在であっても、今の状況を家族に伝えておきたいんです。でも、此処から出られないなんて……」


「そうだ、それに関して、お前に言っておくことがあったのだ」


遙が暗い顔でそう呟くと、レオフォンは先程ガークから預かってきた紙を遙に見せた。

遙はその小さな紙を反射的に受け取る。それには、地図らしい複雑な図柄が描かれていた。


「これは?」


「昨晩、フェリスがレパードから受け取ったものらしい。どうやら古い下水道地図のようだが、これを伝って行けば外へ出られるそうだ」


「! 本当ですか!?」


遙は慌てて聞き返した。レオフォンが無言で頷くと、遙は地図に食い入るようにして視線を向ける。

だが、驚きと期待を胸に抱いた遙とは正反対に、レオフォンは眉間に皺を寄せて告げた。


「だが、今はどうなっているか分からない上に、もしかしたらGPCがすでに塞いでいるかもしれん。
……お前がどうしても行くというのなら、かなりの用心をしなければならない」


「……」


レオフォンに言われてみれば、確かにかなり古い地図のようだ。今発てば崩落の危険もあるかもしれない。

それにGPCの者たちに襲われることだって有り得る。自分達をこんな境遇にした卑劣さを思えば、街中にまで侵入してくることさえ容易に想像が付いた。


何よりも、獣人である自分が、故郷に戻るという行為が、遙の心を揺らしていた。

方法さえ見付かれば、すぐに自分は行動すると思っていたのである。しかし、その方法が手渡された今、遙は深く考え込んでしまった。


発つならば、早く決断することに越したことはない。時間経過と共に、気持ちも切迫してくる。遙は顔を歪めると、地図に額を押し付けた。

閉じた視界に、最愛の両親の顔、親友や知り合いの人達の顔が、次々と浮かんでは消えていく。


戻ってもいいのか、果たして、戻るべきなのか……どうするべきなのか、分からない。遙は唇を噛む。


「……すみません、少し、考えてきます……」


遙は紙を握り、レオフォンに頭を下げると、重い足取りで部屋を出て行った。

バタン、と、ドアが閉められる。部屋に残されたレオフォンは静かに目を閉じて、そっと溜息を漏らした。


「今のあの子には、裕りが無さ過ぎる……酷なことをしてしまったな……」






――――――――






部屋を出た遙は屋上に昇り、レオフォンが来た時と同じようにして空を見上げる。

空高くに昇った太陽は、流れ行く雲で薄らと霞んでいた。風は先程よりも強さを増し、広がる廃墟には弱い砂嵐が吹き荒れている。

砂の混じった風が身体に吹き付ける中、遙は地図に視線を落とした。


……行くのならば、出来るだけ早く。GPCの者達に感付かれてしまう。

かといって、遙はすぐに決断出来るほど、心に余裕は無かった。あまりにも難しい問題だ……故郷の人が、今の状況を真に受けてくれるかさえ、分からないのだから。

急かす気持ちと、踏み止まろうとする気持ちの両方が、激しい葛藤を引き起こした。


そうやって、どれ程の時間、地図に目を落としていただろうか。遙は複雑な表情を浮かべて、静かに顔を上げた。


「……だけど、やっぱり、行きたい。行かなきゃ、いけない気がするんだ……」


一言でいい、友人や家族に今の状況を伝えておきたい。

GPCに拉致されたこと。獣人という存在にされたこと。……もう暫く、故郷から離れていなければならないこと。

何も言わずにいても、踏ん切りがつかなかった。急に消えた自分を、周りの人はどう思っているのだろうか。

唐突に連絡が付かなくなり、警察も動かないという、そのあまりにも不審な状況がこれ以上続くことは、親にも友達にも迷惑をかける。それに、誰にも嘘を吐きたくない。


遙は一度目を閉じると、ぱっと後ろを振り返った。

――そこには、一人の人物が立っていた。


「ガーク!?」


「よぉ、遙。……その様子じゃあ、おっさんから聞いたんだな」


ガークは手を挙げて声を掛けると、重い足取りで遙の隣まで移動してきた。

そして、遠い目で地平線を見詰める。


「どうするんだ?」


「……うん。私、戻ろうって思う」


遙は小さな声で言った。


「本当に少しで良いんだ。二度と此処に戻って来ないって訳じゃない。唯、これからの戦いに備えて、一度だけでも戻って踏ん切りを付けたい。
このまま皆を、放ってはおけないよ……」


「……そうかよ」


遙の言葉を聞くと、ガークはその場に座り込み、頬杖を突いた。


「遙ぁ、お前が戻る前によ、こいつだけはいっておく」


「? 何?」


ガークは暫く沈黙し、溜息と共に話し始めた。


「どんなに親しい相手でも、獣人の姿を見せたらビビッて逃げちまうってこともある。……全てのヤツらに、自分の姿を曝け出そうだなんて思うな。
お前の話を冷静に受け止められそうなヤツだけにしろ。……そうじゃねぇとお前が――」


「……っそんなこと」


遙は喉に息を詰まらせて、少し苛立ったように言い返す。


「わ、私だって分かっているよ! ……お母さんや友達なら、自分のことだってしっかり受け止めてくれる……」


「根拠はあんのかよ?」


「……! そんな理由なんかじゃなくて、そう思えるんだ。ガークだって、言っていたじゃない。ずっと一緒に過ごして来たから……きっと……」


徐々に勢いを弱める遙の口調を聞いて、ガークは立ち上がった。

彼は哀愁感の漂う目元を、自分の掌に落として、独り言のように語り始める。


「あんまり決意が固まらねぇ内に、外に出ることは勧めないぜ。……お前が思う以上に、獣人ってのは化けモンだ」


「ガーク!!」


彼の非情な言葉に、遙はついに叫んだ。


「どういうこと? ……そんなに、私が外に出ることは駄目なことなの?」


「何もそこまで否定しちゃいねぇよ。唯、お前が悩んでいる様子だったからだ。そんな中途半端な気持ちで出て行っちまったら、傷付くだけで終わるかもしれねぇって話だよ」


「ッやめてよ!!」


ぱんっ、と、高い音を立てて、ガークの頬に痛みが走った。

普段は大人しい遙が、その童顔を怒らせて、ガークに平手打ちを浴びせたのである。予想外の反応に、ガークは眉を上げた。

そんな彼から視線を逸らし、遙はぎりぎりと歯を食い縛ると、肩を震わせながら呟く。


「……ひどいよ……ガーク。そんな、そんな私の家族との絆を――断つような事言わないでよ……!」


遙は涙を浮かべながら、ガークに怒声を浴びせつけると、屋上に設置された階段を素早く駆け下りて行った。

ガークはその姿を追うこともせず、唯、殴られた頬に手を当てると、地平線に沈んで行く太陽を見詰めていた。






――――――――






遙は目尻に溜まった涙を袖で拭い去ると、一気に階段を駆け下りていく。

ガークに言われた言葉が胸を締め付け、遙は涙を止めることが出来なかった。

獣人と人間が、分かり合えないような言い方。二日前の晩に言ってくれたこととは、まるで正反対の言葉ではないか。


(……違う、私の家族や友達は……自分のことを、きっと認めてくれる……!)


彼が言うとは想像もし得なかった言葉を、遙は心の中で何度も否定し続ける。心は人間そのものだ。説明すれば、きっと分かってくれる筈だ。

だが、そんな言葉とは裏腹に、心の中では再び葛藤が首を擡げていた。遙がそのことに苦しさを感じて、そのまま自室まで駆け込もうとした時。


「ッわ!?」


ぼふっ、と、遙は急に柔らかいものに当たって、思わず声を上げた。あれほど全力で駆けていた足から、徐々に力が抜けていく。

おそるおそる顔を上げると、そこにはフェリスの驚いた顔があった。


「おっと、目を瞑って走ると危ないよ? 私じゃなかったら数メートルは吹き飛んでいたわ」


「あ、す、すみません」


どうもフェリスの豊満な胸元に顔を突っ込んだらしく、遙は恥ずかしさと申し訳無さで頬を染めると、一歩下って謝った。

充血した目に、涙の跡が残った頬。今だに肩を震わせてしゃくりあげる、遙のその姿を見たフェリスは苦笑を漏らす。


「その様子じゃ、ガークに何か言われた? ……遙は、家に帰るつもりなんでしょ?」


「……分からない、です。ガークに言われたことが、何だか……」


遙は心の整理が付かず、俯いた。彼の言った言葉で、あっさり覚悟が破れてしまったのを感じると、やはり、まだ決意は出来ていないのだろう。

時間も無いというのに、どうしてこんなに迷うのだろうか。そう自分を叱咤するのだが、中々思うようにいかない。

嗚咽と共に溢れる涙を拭う、遙。そんな彼女に目線を合わせるようにして、フェリスは少しばかり身体を屈めた。


「こんなこと言うのも難だけど、ガークはあなたのためを思って言ったのよ。かなり捻くれた言い方だから、悪い意味合いが強いだろうけど、ね」


「私のため、ですか?」


遙は涙で濡れた顔を上げた。


「そう。……少し、昔話になるけど、ガークにも嫌なことがあってね。あれは、獣人にされて、すぐのことだったかな」


遙の問いかけに答えると、フェリスは遠い目をして、静かに話し始めた。






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