「……ん」


遙はぼんやりと目を覚ました。朝日の差し込む眩い視界。

もう朝になったようだ。そういえば、昨晩はガークと話している途中に眠った気がする。身体は少し重いが、これといった気分の悪さは無くなっていた。

特に夢も見ずに、比較的すっきりした寝覚めである。昨日見た悪夢の光景も、薄らとだが和らぎつつあった。

あのような悪夢を何度も見せられては、すっかり気が滅入ってしまうだろうから……遙は寝返りを打つと、呻きと共に両足をぐっと伸ばした。


「……あれ?」


ふと、遙はシーツに手をかけたまま、部屋を見回した。

そこにガークの姿は無い。……他の人達も一階にいるのだろうか。と、思ったが、すぐにその考えは打ち消された。


人の気配が、少ない気がする。人間時であれば、そんな感覚無かったのだが……獣人だからだろうか。

妙な寂寥感を感じて遙はシーツを退けると、板張りの床に足を付けて立ち上がった。

部屋には、他の人の匂いも感じない。声も、気配も、何もかもが、昨晩よりも少ない気がするのだ。


もしかして……


「レパードさん?」


遙は焦燥感と共に、窓を素早く開けて外を見た。

窓を開放した瞬間、春とは思えない冷たい風が、頬を切るように流れ込んできた。






――――――――






(下水道……か)


フェリスは昨晩受け取った紙を凝視しながら、ぼんやりと考え込んでいた。

行くなら、早く発つべきだろう。GPCの者達が感付かないとも言い切れないし、老朽化の危険も少なからずある。

だが、フェリスはすぐに決断を出せなかった。……何と言っても、外に出るには、少なからず抵抗がある。


「外に『獣』はいないしね……」


「朝っぱらから何ぼやいてんだ化け猫」


ぐっと顔を出してきたガークにフェリスは小さい悲鳴と共に紙を掌へ隠した。

幸い、ガークは気付かなかったようだが、フェリスは焦る心臓に手をやりながら、呆れたように溜息を漏らした。


「もう、いきなり声をかけないでよ。心臓が止まっちゃうわ」


「てめぇの毛の生えた心臓が簡単に止まるかよ。つーか、何だ、外に獣がいないって。食糧不足って奴かよ」


不機嫌そうに言いながら、ガークはキッチンの冷蔵庫を荒々しく開けた。


「……何にもねぇんだが」


「お生憎様。ガークが摘み食いを続けたお陰で空っぽよ。非常食の缶詰なら地下室に放り込んであるけどね」


フェリスが親指で廊下の方を指差しながら言う。ガークは弾かれたように振り向いた。


「何だとッ! コーヒーはねぇのか!?」


「缶コーヒーならあるんじゃない?」


「バッカ野郎! コーヒー大国ロムルスの人間を舐めんな!
原料豆の品質から挽き方、挙句にはミルクの選別やコーヒーセットの産地にまで拘る俺だぞ! インスタントで我慢できるかっ!」


ガークはフェリスに向けて、室内がビリビリと振動する程の蛮声を上げる。フェリスは顔を顰めて耳を塞いだ。

朝から随分と威勢が良い。元気が良いのは何よりだが、それだけ活力が有り余っているというのなら、別に食事を一、二回抜いても大して問題は無いだろう。

あくまで肉体的な話ではあるが。精神的には何か口にしないと落ち着かないらしいガークに、早朝からフェリスは疲弊してしまった。


「……普段コーヒーを淹れる時に湯を沸かすことさえ面倒臭がっているクセに、よくもまぁそんなことを言えるね。
でも、こうやって食糧が切れているってことは、そろそろ『あのヒト』が来る頃なんじゃないかしら?」


フェリスの大儀そうな返答に、苛立たしげに頭を掻き毟っていたガークは、唐突に手を止めた。


「あのヒト……おっさんのことか?」









(やっぱり……)


遙は一階に下りてきて、辺りを見回した。

いない。ガークとフェリス以外に、他の三人はいなくなっていた。僅かに残るレパード達の匂いは、玄関先に流れている。

確かに一晩だけとは言っていたが、こうやって早々に立ち去られると少し寂しかった。


折角会えた仲間だ。元々仲間であったガーク達は、自分以上に再会を喜んでいたであろう。だが、それを口にしなかったのは、やはり、何かしらの溝が生じていたのだろうか。

フェリスが首領の男を殺めたこと。それが切欠でグループは離散。……それでも、昨晩の会話を聞く限り、絆までをも断ち切ったようには感じなかった。


(皆、気を遣っていたのかな?)


一度事件が起きてしまえば、もう二度と同じような状態は望めない。例え以前のような友好関係になっても、何処かしら心に抵抗が生じる。

お互いの気持ちを考えた上で、レパード達は出て行く行動を取ったのだろうか。


「……」


遙が沈んだ顔で一階の廊下を歩いていると、微かに人の声が耳に届いた。

その声は、右手のドア列から響いて来ている。遙はもしかしてと思って、声が聞こえる食堂らしきドアに手を掛けた。


バンッ


唐突に開いたドアに、遙は見事に額をぶつけた。そのまま床に尻餅を突いた遙の視界に、チラチラと火花が広がる。

数日前にも同じようなことがあった気がするが……遙は涙を滲ませながら、おそるおそる視線を上に上げた。

だが、そこには以前のようにガークではなく、目を丸くしたフェリスが立っていた。


「ああ、ごめん、遙。黎峯の扉って外側に開くものね」


フェリスが開いたドアを小突きながら、困惑したように謝った。


「はい……」


遙は痛みによろめきながら立ち上がると、フェリスの顔を見た。

今は痛みで呻いている場合ではない。遙はフェリスと視線を合わせるなり、気になっていたことを口にした。


「……あの、レパードさん達を知りませんか?」


「ああ、あいつらなら昨日の晩に出て行ったよ。レパードの奴に、リオもゲイルの兄貴も付いて行った」


部屋の奥で缶コーヒーを手にしていたガークが、フェリスの代わりに答えた。

その言葉を聞いた遙ははっと息を呑んだ。


「……ガーク、もしかして、昨晩から知っていたの?」


「まぁな。いつまでも一緒にはいられねぇよ。あいつらは、素直じゃないからな、まだ溝はあるってことだ」


ガークは複雑な表情でプルタブを開けて、缶コーヒーを飲みながら言った。

遙はその言葉を聞いた途端、何とも言えない顔になって唇を噛むと、素早く踵を返した。


「あ、ちょっと、遙!」


フェリスが叫ぶ中、遙は振り返りもせずに駆け出す。

階段を駆け上がって行く遙を呼び止めようとしたフェリスは、思わず手にしていた紙切れをはらりと落とした。

それを見付けたガークは眉を上げて拾い上げる。


「なんだこりゃ? 地図か……?」


「あー! 勝手に見ないでよッ」


フェリスは振り返って叫んだ。

だが、彼女の言うことを無視し、ガークは紙切れを色んな角度から見やりながら唸る。


「んん? 裏にも文字が書いてあるな、ちょっと荒いがレパードの文字だなこりゃ。……『 幸運を祈る 』 か、意味深だなぁ」


言葉とは裏腹に、じろっ、と、ガークはフェリスを睨んだ。


「さっきのリアクションといい、お前、何か隠しているな? こいつは何だッ!?」


ガークに紙を突き付けられ、フェリスはその鬱陶しさに身体を引いた。

此処まで来たら隠しているのも限界だろう。フェリスは腰に手を当てて溜息がちに口を開いた。


「もう、大声で……耳に障るわ。良いわよ、いずれ話すつもりだったから」






――――――――






(……)


遙は屋上まで昇り、荒地と廃墟の連なる地を見詰めていた。

そこに広がる荒涼とした大地には、人影はおろか、動物や植物の姿さえ無い。

人間の生み出した人工物が脆くも崩れ去り、自然にも馴染めずに放棄された物達が悲哀と共に折り重なっているだけだ。

その光景を越えて、淡く滲む地平線を見詰める遙は、静かに目を細めた。


「変だよ……同じ仲間なら、一緒にいた方が皆嬉しい筈なのに……どうして行ってしまうのだろう?」


遙は小さく呟き、空を仰いだ。

陽光が眩しい。今日は雲一つ無い空模様であった。人間であった頃ならば、楽しめる一日となりそうだが。


だが、遙が憮然として視線を降ろした途端、ふと、その太陽の光が一瞬陰った気がした。

遙は瞬きをして、もう一度空を見詰める。……何か、黒い影のようなものが見えた。


「な、何かな? あれは……UFOとか?」


飛行機? ヘリコプター? あるいは、鳥だろうか……?

いずれにせよ、この絶対不可侵区域の上空は航空することも禁じられている。ならば、人の制約を受けない動物となるだろう。

しかし、その影は不自然に大きい気がする。鳥や蝙蝠は比較的小型のものが多い。何と言っても、大型の猛禽類の類よりも、その姿が大きい気がするのだ。

となると、いよいよ未確認飛行物体ということになる。遙が好奇心と恐怖心の葛藤を抱きながらも目を凝らした。


遙がそれをじっと凝視していると、やがてその影は上空でくるりと旋回し、次第に高度を下げてきた。

やはり、鳥ではない。……そして、どう見ても空を飛ぶ小動物というレベルの大きさでもなかった。


巨大な翼だ。それも、蝙蝠のように皮膜を持った……そうなると、遙は驚いて尻餅を突いた。


「じ、獣人!? うわッ!」


ズズンッ、という鈍い音が響く。砂利が重量のあるものに押し潰されたようなその音と共に、屋上に蓄積していた砂塵が舞い上がった。


遙は手で埃を払いながら、片目を開く。――勢いのある風を纏って、遙の目の前に降りてきたのは、巨大な翼を持った白い獅子だった。

その身長は軽く二メートルを越えているだろう。翼も含めれば、さらに大きいと言っても過言ではない。

何より、その歪な姿は獣人であるが、普通の獣人ではないということははっきりと分かった。


獅子から蝙蝠の翼が生えるなど、伝承上の怪物の類に等しい。遙が唖然としてその獅子面を見詰める中、相手は背中に背負っていた荷物を降ろした。


「まさか……」


その獅子が年期の入った、初老らしいしゃがれた声を漏らした。

いきなり話しかけてきた獣人に、遙は当然驚いて、慌てて後退る。


「わっ、あ、あなたは……!?」


遙が動揺しながら問い掛けると、獅子らしい獣人は顔を近付けてきて、その赤い瞳を見開いた。


「御主、名は何と言う?」


「な、な、名前? 私は、遙です、東木……遙」


圧倒された遙が噛みながらそう答えると、獅子は顔を引いて、その大きな口吻を少しばかり開いた。

相手も驚いたようにしている。様子を伺う限り、どうも襲ってくる気は無いようだ。それを感じ取った遙は姿勢を少しだけ大きくした。

遙が身体を起こしかけるのを見て、獅子の獣人は思い付いたように手を差し伸べてくる。


「! おっと、申し遅れたな。私はレオフォンという、見ての通り獣人だ。
定期的に此処の獣人達に物資を届ける役目をしている。……他に仲間はいるのか?」


「レオフォ……ンさん? えと、仲間は……」


『おい、遙!!』


唐突に背後から声が聞こえて、レオフォンと名乗る獅子の手を取りかけていた遙は、慌てて振り向く。

視線を向けた先……屋上の出入り口には、息を切らしたガークの姿があった。


「あ、ガーク! このヒトは……」


「おう? レオのおっさんじゃないか。今回は遅かったな」


遙がレオフォンを指差す中、ガークは機嫌が良さそうに挨拶を飛ばす。

遙は混乱しつつ、二人を交互に見ていると、レオフォンの方も笑みを浮かべるように口角を曲げた。


「ガークか。お前一人なのか? フェリスは何処に行った」


「あいつは下にいるよ。安心しろ、何処にも行っちゃいねぇぜ」


笑いながら答えるガークに、安堵したように表情を緩めるレオフォン。二人の会話を聞く限り、どうも知り合いらしい。

そう言えば、レオフォンは物資を運んでいると……そこまで来て、遙は「あ……」と小さな声を漏らした。


" 獅子面のおっさんが空から飛んでくるんだ "


確か、以前ガークがそんなことを言っていたような。

流石に比喩かと思っていたが、まさか本当だったとは……それにしても、あまりにも抽象的な表現ではないか。


ガークの言葉と会話を聞く限りでは、どうもGPCに関わっている人には見えない。信頼しても良さそうだ。

そう思った遙は、レオフォンの被毛に包まれた手に自らの掌を重ねる。……当然だが、もふもふしている。もっと硬い毛だと予想していたが。

レオフォンの手を借りて立ち上がった遙は、服に付いた砂埃を払いながらガークを見た。


「もう……っこの間は全然説明してくれなかったじゃない」


ちゃんと説明してくれなかったがークに対して、遙はほんの少しだけ怒ったような表情をする。

しかし、彼は腰に手を当てて、相変わらず上機嫌にニヤニヤと笑みを浮かべて返した。


「はっは、まぁ警戒することは無いぜ、遙。このおっさんは悪い人じゃねぇ。俺達のライフラインみたいなヒトなんだからな!」


「ラ、ライフライン? ……」


遙が驚きに感嘆の声を漏らす。そしてレオフォンの大きな姿を見上げると、相手もこちらに目をやってきた。

赤い獅子の眼が、遙の穏やかな鳶色の目を静かに凝視する。


「……東木……遙、か」


「? どうしたんですか」」


「いや、何でもない。すまなかったな、急に驚かすようなことをして」


レオフォンはそう言って、再び遙に手を差し伸べた。

遙はそんなレオフォンの様子を目を瞬いて見ていたが、すぐに彼の手を取る。


「おーいッ、遙ー、レオのおっさん! 早く来いよ」


ガークが下に下りる階段の前で、大きな声を上げた。

その声に、遙もレオフォンも慌ててそちらへ目をやる。


「あ、うん、ガーク」


「せっかちな所だけは変わらんな」


さっさと出入り口から階段を降りていくガークを見ながら、レオフォンが苦笑を漏らした。











「……そうか、遙はキメラ獣人にされた上に、記憶が無いのか」


「はい、と言っても、GPCにいた頃の記憶だけですが……」


遙は熱いコーヒーを口に運びながら、レオフォンに言った。

ガークを筆頭に、三人で食堂に戻ってくると、フェリスもさして驚くような顔もしなかった。

どうもレオフォンには何度も会っているらしく、お馴染みの姿だったらしい。遙は自分とのギャップに苦笑せざるを言えなかった。

物資を纏めているフェリスを除く、三人でテーブルを囲み、少し遅めの朝食を口にしながら遙自身のことについて会話を交わす。


遙とレオフォンの会話を聞いていたガークは干し肉の類を食い千切りながら鼻を鳴らした。


「何と言っても、遙はキメラ獣人の中でもお尋ねモンなんだよ。……でもキメラっつぅと、おっさんと一緒だな。
レオのおっさんは、何かキメラ獣人に関する情報を知らないのか?」


「ふむ、私もGPCの頃の記憶は曖昧でな……奴らも核心を突くような情報を被験者には漏らさなかった。
遙がどうやってGPCから脱走したのかも、はっきりとは分からないな」


「GPCねぇ……そういうところは神経質な奴らよね。脱走した被験者の行き先なんて特に気にしていないように見えるし」


フェリスがレオフォンから受け取った物資を探りながら呟く。

……ふと、フェリスは目を瞬き、袋の中に手を伸ばした。


「? これは何かな?」


食糧や怪我の治療薬に混じって、袋の奥底に、何か異質なものがちらりと見える。

フェリスはそれを慎重に手にとって見ると、見慣れないものが出て来た。


「レオさん、これ、誰の鞄?」


フェリスが手にしていたのは、一つの抱鞄だった。

松葉色の皮で作られたそれは、取っ手部分と錠前が銅色の金属で補強されている。パッと見る限り、まだ新しいもののようだ。

鞄の端には、小さな紋章のようなものも印刷されており、藍玉とプラスチックが加工されたストラップも付けられている。

……これも物資の一つだろうか、そう思って、フェリスはレオフォンを見た。


「ああ、すまん。私物も混じってしまったようだな」


「ん? なんだなんだ?」


レオフォンが立ち上がると、ガークも好奇心に釣られるようにしてフェリスの元に向かった。

だが、その様子を横目で見ていた遙は、フェリスの手にしていた鞄を見て、弾かれたように立ち上がる。


「あ! それは!!」


「うお! 何だよ、急に大声出しやがって。
にしても、レオのおっさんよ……幾らなんでもこの可愛らしいストラップまで私物だっていうのかよ?」


「馬鹿者。それは言うなれば本部での預かり物だ。私の趣味の物などではないぞ」


「ちょっと、ガーク」


急に割り込んできた遙に、三人共驚いたように後ずさる。珍しく強引な遙に、皆は驚いたように目を瞬いた。

だが、彼等の視線など気にも留めず、遙はフェリスの手に持たれた鞄に視線を注ぐ。

まだ新しいスクールバック。それに、自分の母校である高校の校章が印刷されており、何よりも、自分しか持ち得ないストラップまでが提げられていた。


「学生鞄? やっぱり、それは……」


鞄の特徴を確かめるようにして凝視していた遙が、震える声音で話した。


「それ、私の物だよ! 私が学校で使っていた鞄だ!」


「本当かッ!?」


ガークとフェリスが仰天したように顔を見合わせた。

だが、遙の物といえど、何故こんな所にあるのだろう。フェリスは遙に鞄を渡しながら首を捻った。


「でも、どうしてレオさんの物資に混じっているのかしら? レオさん、さっき預かり物だって言ってましたよね?」


「……ああ、被験者として拉致された者の、手掛かりとなる私物を、本部では幾つか回収しているのだ。
殆どがGPCに証拠隠滅として処分されてしまうから、決して数は多くないが……そのうちの一つが、遙の物だったということだな」


「そうか、私が拉致された時、学生鞄を落としたままだったんだ……」


遙はフェリスから受け取った鞄を見詰めながら、拉致された日のことを思い出した。

帰ろうと立ち上がり、見知らぬ女性に手を掴まれた時に、思わず手放したのである。そのまま、あの河原に置き去りにしていたのだ。

しかし、GPCが証拠となり得る本人の私物を残していくことには、多少なりと疑問が残った。


「でも、どうしてGPCはこの鞄を残していったんでしょう? 私が攫われたって言う証拠が残ってしまうし……
レオフォンさんは、これを何処から貰ったんですか?」


「残念ながら、被験者個人の情報を記したデータは閲覧不可だ。今回のその鞄も、何かの手違いで物資に紛れ込んでしまったのだろう。
私の所属する組織側が回収しているものだから、GPCの行動に関しても詳しいことは分からないが、自分の大切な鞄が手元に戻ってきて良かったな」


レオフォンの言葉を聞いた遙は、学生鞄を胸にぎゅっと抱き締めた。嬉しさで頬が染まる。


「はい、有難う御座います。……そういえば、本部……って、此処の獣人を支援している組織のことですよね?」


「ああ、悪い所ではない。だが、同時に公に出来る組織でもないということだ。こうやって獣人という存在の情報を扱っている部分もあるのだからな。
基本的には、世界中で起きているテロの撲滅や、各国が条約を破棄しないための強制力として働く組織、という形だ。要約すればそういうことだ」


レオフォンは簡潔に述べた。彼の話を信用するとすれば、獣人はGPCだけが密接に関わっている訳でもないようだ。

だが、獣人達を支援する組織となると、GPCと対立するような組織となるのだろうか。遙はぼんやり考えたが、更に詮索するようなことはしなかった。

何よりも、今は自分の鞄が手元に戻ってきた喜びで胸が一杯になっている。遙は微笑みながら、再び鞄に視線を落とした。


……こうやって鞄を持っていると、少し重量がある。もしかして、中に何か入っているのだろうか?

遙は軽く鞄を振ってみると、ガサガサと音がした。中で物が擦れ合う音に違い無い。


「! ごめんガーク。ちょっと、中に何が入ってくるか確かめてくるよ」


「そんなもん此処で開けろよ。いちいち部屋に行く必要は無いだろ」


「ガーク」


フェリスはガークを咎めた。


「プライバシーなものも入っているんでしょう? ヒトに見られたくない物の十個や二十個ぐらい鞄には入っているわよ」


「本当に女ってヤツは……って幾らなんでもそりゃ多過ぎだろ」


ガークはつまらなそうに舌打ちし、がっくりと肩を落とした。その様子を見ていた遙は苦笑すると、鞄を胸に抱え込む。


「じゃあ、ちょっと部屋に行ってきます。すぐに戻りますから……」


遙はそう言うと、あっという間に食堂を抜け出して行った。

バタバタと大きな足音を立てて、階段を上る音がすぐに聞こえ始める。それこそ、驚く程のスピードであった。


「すげー速さだな。……お?」


遙の出て行く姿を見送っていたガークは、思い出しように紙切れを取り出す。

彼のズボンのポケットから取り出されたそれは、フェリスから奪い取っていた下水道地図であった。


「すっかり忘れてたな。例の抜け道を、遙に伝えるのをさ」


「抜け道?」


ガークの言葉に、レオフォンが瞼を上げた。

レオフォンの問いに、ガークはニヤリと笑みを浮かべる。


「ああ、レオのおっさんにもまだ言っていなかったな」









遙は自室に飛び込むと、すかさず鞄の折り畳まれている封を開いた。


中にはテキスト、ノートなどの教材が詰まっていたが、遙はそれよりも見つけたいものがあった。

手始めに筆箱を取り出し、皴が出来てしまっているテキストやノートを寝台へと次々と放り出して、鞄の底に沈んでいたもの――。


「! あった……携帯電話……」


遙は蒼色と銀色で単調に彩られたデザインの携帯電話を取り出した。

だが、遙はそれを見た途端、怪訝そうに眉根を寄せる。携帯電話に吊り下げていた筈の、鞄と御揃いのストラップが無かったのだ。

何処へやってしまったのだろうか? 遙は再び鞄の中を探してみる。すると、底の方でビーズがバラバラに砕け、薄らと光る小さな藍玉がコロリと転がっていた。

まるで、外部からかなり強い力がかかったように紐は引き千切れている……だが、鞄に入っていた他の物資は殆ど傷付いていなかったのだ。


それらを見る限りでは、これだけを壊したような感じで……


(……そういえば、これはお母さんに貰ったものだったっけ? どうしてこんな事を……)


名残惜しいと同時に、悲しい気持ちが競りあがってきた。遙は愛惜の品であるストラップの残骸を右手に乗せて見詰めていたが、やがて諦めたように溜息を吐いた。

それよりすべき事がある。遙は携帯電話へと視線を向けた。一秒でも早く、今の自分の状態を伝えたかったのだ。

遙は期待を胸に携帯を開いてみたのだが、画面は真っ暗だ。電源を切っているのだろうか? だが、電源ボタンを押し続けても、画面が点く事は無かった。


「……電池が切れてるんだ……」


遙は呆然として携帯電話を握り締めた。確かに、殆ど使用していないとはいえ、二十日近くも放置していたのだ。

充電器も無いために、連絡の取りようが無かった。着信が少なからずある筈なのに……そう思うと悔しくてたまらない。

友人でも家族でも良いから、少しでも会話をしたかった。遙は唇を噛み、再び込み上げて来た涙を押し殺す。



コンコン



「! はい」


小さなノックが掛かり、遙は思わず顔を上げて返事をした。

ドアが音を立ててゆっくり開くと、そこには巨大なレオフォンの姿が見えた。手には何か小さな袋が握られている。

その巨躯故に、彼は背を屈めて遙の前までやってきた。二メートル近い身長もだが、背に伸びる翼の分も合わせると、少し窮屈そうにも見える。


彼は遙の前まで来ると、目線を合わせるように少し屈んでみせた。


「すまんな、急に押しかけて。どうだ、何か見付かったか?」


「は、はい、一応……」


遙は携帯電話を鞄にさり気無く戻しながら、そう答えた。

喜んで部屋に戻ったのは良いが、肝心な携帯電話が使えないといってしまえば、レオフォンも気を悪くするだろう。


レオフォンは寝台の傍にあった椅子に腰を掛けながら、緊張した面持ちの遙を見た。


「――少しは、此処の暮らしに馴染めたか?」


「え……はい。少しは……」


遙は急に問われ、びくりとしながらも答えた。

遙があれこれ考える中、レオフォンは透徹した瞳で遙をまじまじと見詰め、溜息交じりに口を開いた。


「……慣れてはいないようだな。ついこの間まで、普通の生活があったのに、どうしてこうなったか……そう思っているのではないか?」


「! ……」


遙は返し切れなくなった。その通りだ。まだ腑に落ちない所が沢山ある。

なぜGPCが自分を攫ったのか未だに理解出来ない上に、よりによってキメラ獣人などに……

今は大切な仲間に囲まれているが、自分と親しい『人間』がこちらを認めてくれるかも気がかりになっていた。

こうやって、自分が拉致される以前の私物を手にしていると、その気持ちはより複雑になる。

いつか元の生活に戻れる。そう願っているものの、気が遠くなるような先の話にも思えるのだ。……本心は不安で仕方が無かった。


遙が口を閉じて俯くと、レオフォンは少しばかりその巨躯を揺らした。


「ふむ、顔色も優れぬようだ。食事をまともに摂っておらぬな? 遙よ、少し手を出してみなさい」


「手……?」


遙は顔を上げると、おずおずと両手を差し出す。何だろう?

だが予想外なことに、レオフォンは手に持っていた袋を開け、経木に包まれた三角形のものを遙の両手に乗せた。


「……これは……?」


レオフォンが「開けてみれば分かる」と言った。

遙は言われるままに経木を捲りつつ、中身を出してみる。


「……お、おにぎり?」


これが出てくるとは夢にも思わなかった。シンプルに米を三角形に固め、頂から海苔を巻いただけの品であるが、遙は微笑んだ。

思わず懐かしい感覚がしてしまう。高校になってから弁当を持参しなければいけなくなったから、母が忙しい時は大抵これで済ませていたのだ。

遙の反応に、レオフォンも笑ったように口端を吊り上げる。


「……食べると良いぞ? 故郷の食事が一番口に合うだろう」


「え……、でもレオフォンさんは?」


「いや、私はいらぬよ。何にせよ、獅子の遺伝子を持ってからというもの、野菜や穀物などは一切好まなくなった。
食えぬ訳ではないのだが、獣人になると、食性まで変わってしまって困ったものだな」


取り合えず催促されて遙は一口齧ってみた。

ほんのり温かい、海苔の風味がする。久々に口にした和食に、遙は思わず喉に詰らせる勢いで食べた。

何年も口にしていない感覚がし、懐かしくて、懐かしくて……だが、同時に悲しくなり始めた。


「帰りたいよ……家に……っ……お母さんっ……」


遙は粗方食べ終わると、涙が零れ落ちた。

咽ながらも、込み上げてくるものに耐えられず、レオフォンの獣毛に覆われた胸元にしがみ付く。

家に帰れない心苦しさ、もどかしさ、獣人という存在に変わってしまった絶望、人を殺した悲しみ。……たったの二日間が、あまりにも大きく心を傷付けた。


――レオフォンが嗚咽する遙の頭にぽふ、と軽く手を載せる。遙はびくっ、と肩を震わせた。


「……泣くのを我慢しても、良い事はない。泣ける時に思いっ切り泣いておくものだ。
まだまだ、先は長いかもしれぬ。息抜きも必要だ……特に遙、お前にはな」


「うっ……ううぅぅ。うわああぁあっ!」


堰を切ったように遙は声を上げて泣いた。

獅子の姿を持っていながら、レオフォンは何処か自分の父親を彷彿させるものがあった。

声も姿も全く違うのに……。ようやく見つけたような心の安らぎに、遙は涙を流さずにはいられなかった。






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