13







ぱんッ、と、ある種湿った音を立てて、遙の左頬にチリチリと痛みが走る。

仲間達が見ている中で、ガークが遙の頬に平手打ちをしたのだ。遙は申し訳無さそうに眉を下げて、頬に手を当てる。


レパード達との邂逅の後、ガークとフェリスの家まで戻って来ていた。

しかし、仲間との再会を喜んでいたのも束の間で、結局ガークは遙の行動に対して不機嫌な様子を隠し切れず、今の状況に至る。


ガークが容赦無しに遙の顔を引っ叩いたのは、言うまでも無く今朝の出来事が原因であった。

何も告げずに此処を出て行ったこと。遙とて考えがあったものの、やはり、ガークとフェリスにとってはショックだったらしい。


ガークはぎりぎりと歯を食い縛り、拳を固めたが、ついに二度殴るようなことまではしなかった。

代わりに、遙の俯いた顔に向けて、思いっ切り怒声を張り上げる。


「てめぇな、俺達がそんなに信用ならなかったか!?」


ガークが怒りを露にして叫ぶ。遙は申し訳なさそうに俯きながら、小さな声で話し始めた。


「違う、そうやって信用していてくれたから……これ以上、巻き込みたくなくて……」


「あのなぁッ、俺らはお前のことを信じてたんだ。お前を追ってどんな敵がゴロゴロ来ても、絶対に護ってやるって、そう言った筈だぜ?
こっちは……裏切られた気分なんだよ。仲間だって、言ったばかりだったじゃねぇか……」


ガークは不機嫌そうにその場にどすっと胡坐を掻いた。彼の行動で、木材で出来た床がぎしっと軋む。

ガークのその行動を見ていたフェリスは眉を顰めた。


「もう、女の子を思いっ切り殴るなんて。ガークみたいに馬鹿じゃないんだから、遙は言えば分かるわよ」


「うるせー! 軽く平手打ちしただけだろうがッ」


ガークが言い返す中、フェリスは疲れたように椅子から立ち上がる。


「遙、ちょっと救急箱を取ってくるね。傷の手当してあげるよ」


「は、はい……」


フェリスが部屋を出て行くのを見ていた遙は、両手拳を握り締めた。その間も、ガークは遙から目を背けて唸っている。

余程頭に来ているようだ。ガークの言うように、自分の行動を思い返してみると、やはり彼等の気持ちを裏切ったことに等しい。

仲間だと約束し、信じていたにも関わらず、何も言わずに出て行ったこと。……遙は頬を押さえながら、すっと顔を上げた。


「ごめん、そんなに信じてくれていて……私、本当は嬉しかったんだ。私がいると、危ない目に遭うのは目に見えているのに、仲間だって認めてくれたことが」


「ちッ、謝られても嬉しくねぇよ。そこは素直に『ありがとう』って言えよ、全く……。
こっちが気にいらねぇってことで消えるなら分かるが、嬉しいから消えちまうって矛盾してるだろが馬鹿野郎」


ガークは大きな溜息を漏らし、ソッポを向く。

遙は寝台の上でゴソゴソと正座をし、姿勢を直して、ガークに向けて「ありがとう」と感謝の言葉を告げた。

もちろん上辺だけの言葉ではない。心の底から、遙は感謝していた。


今回の件で、試すような気は毛頭も無かったのだが、彼が今こうやって憤っているのも、仲間だと認めてくれている証拠そのものだろう。

遙の感謝の言葉を聞いたガークは、唇を突き出して鼻を鳴らした後、やがて怒りを静めたように大きく息を吐いた。


「もう、何処へも行くんじゃないぞ。次は探してやらねぇからな」


まだ何処か不満げではあるものの、ガークはある程度落ち着いたようだった。遙も微笑を浮かべる。

仲直りをした二人を部屋の奥から見ていたレパードは、大儀そうに遙の顔へ視線を移した。


「まぁガークが怒る理由も分かるな。お前は自分が此処にいると危険だと思うようだが、むしろ逆だと言っても良い。
殺してはならない存在であるお前がいるからこそ、奴らは大きな手を出せないという可能性もあるんじゃないか?」


「……」


レパードの言葉に、遙は無言で俯いた。


「ガーク」


「んだよ、遙」


「私、ずっと此処にいるよ。もう、何処にも行かない。……結局一人じゃ何も出来なかったんだ。
余計に迷惑かけるだけで終わっちゃったし、何よりも、皆と一緒にいる方が楽しいから……」


遙は苦笑して言った。

その顔を見たガークは舌打ちすると、立ち上がって頭を掻いた。


「ったく、最初からそう言えってんだ。次、どこかへ行ったら、平手打ちで済むと思うなよ。両足圧し折ってやる」


「何を乱暴なことを」


いきなり部屋のドアを開けて入ってきたフェリスが、即座にガークの言葉を切った。

フェリスの後から続くようにして部屋に進入してきたリオは、その手にティーセットを持っている。

薄らと紅茶とコーヒーの芳しい香りが漂ってきた。心がそっと落ち着きを取り戻すような、甘い香りに、部屋にいた皆が顔を上げる。


一方で、フェリスが手にしているのは小さな救急箱と氷嚢だった。フェリスはガークを見下ろして呆れたように溜息を漏らす。


「全く、ガークの言葉は冗談には聞こえないのよ」


「だ、大丈夫です。ガークも、気遣ってくれていると思いますから……」


遙が答えると、ガークは顔を赤くして窓の外へと視線をやった。

フェリスは遙に近付いて、頬の掠り傷を綿で拭いてやりながら、話し始める。


「今更言うのも難だけど、一言ぐらいは告げて欲しかったかな。あなたが私達を気に入らないとか、そういう理由で出て行くのには全然引き止めるつもりは無かったのよ?
仲間だからこそ、気を遣う必要は無かったってことね。……はい、これでお終いっと」


フェリスは遙の頬に絆創膏を貼り、ついでに氷嚢を手渡すと、そっと立ち上がった。

遙は彼女の言葉に肩を揺らして、複雑な表情で迫る。


「そ、そんな、気に入らないだなんて、無いですよッ! ガークにもフェリスさんにも命を救って貰ったんです。
……同じ仲間だし……やっぱり、大好きですから……」


遙は恥ずかしさと嬉しさで頬を染めながら呟いた。その言葉を聞いたフェリスは苦笑する。


「遙も気を遣ってくれていたんでしょう? ありがとう」


そう言いつつも、フェリスは遙の目の前まで手を伸ばしてきた。

何事かと彼女の手を凝視していると、フェリスは素早く親指で人差し指を押さえて、遙の額を一気に弾く。


「痛ッ!?」


「ふふ、次に遠慮したらこのぐらいじゃ済まないわよ? 覚悟しておきなさい、遙」


額にでこピンを受けた遙は、想像以上の痛みに呻いた。

だが、涙が滲んだ目を開くと、フェリスは安堵したような顔立ちで微笑んでいた。彼女もガークと同様に心配してくれていたのだ。

こうやって自分を気遣ってくれる二人に、遙は微笑む。心の蟠りは、すっかり晴れ渡っていた。




「しかし、驚いたな。……キメラ獣人というのは、完成体が存在しないものだと思っていたんだが」


リオから受け取ったコーヒーを飲みながら、レパードはぼやいた。


「GPCの技術の進歩によるものか、それとも、単なる偶然なのか……この場合、後者の方が確率は高そうだな」


窓際に背を預けていたゲイルが考えるようにして言う。

遙は彼の言葉を聞いて、頬に氷嚢を当てながら顔を上げた。


「どうしてですか?」


「他にキメラ獣人を作り出せる技術があって、尚且つ量産出来るような体勢があるというのなら、何もお前を連れ戻す必要も高くは無いだろう。
必須であればGPCも総力を挙げて襲ってくる可能性が高い。だが、何故か幹部のようなものが自ら動いてくる様子もないのがおかしいところだな」


「……様子を見ているとか、もしかして、相手も動けない理由があるのでしょうか?」


遙が聞き返す。すると、ゲイルではなく、ガークが呆れたように振り返った。


「動けないも何も、こうやって俺ら獣人を違法にぽんぽん造り出しているフリーダム組織だぞ?
ゲイルの御仁が言うように、遙みたいな個体はいっぱい出来ているって考えた方が良いかもしれないぜ?」


ガークが大儀そうに言ったが、隣に立っているフェリスは溜息を漏らした。


「何をまた話題を振り出しに戻しているのよガーク。奴らが追ってくるということは、完成体は遙ぐらいしかいないってことでしょ?」


「……そもそも、GPCの目的って何なのでしょうか?」


リオの小さな一言に、皆が彼女に視線を注いだ。

急に皆の視線を集めたことに、彼女は驚きを感じてわたわたと両手を振ると小さく俯く。


「あ、その……GPCが獣人を造り出す理由というものですよ。そこが分かれば、遙さんを捕らえようとすることや、GPCが動けない理由も分かるのではないかと思うのです。
例えば、生体兵器としての応用だとか……考えたくも無いことですけどね」


リオが苦笑して言った。

彼女の言葉に、ガークは顎を捻って眉を上げた。


「言われてみれば、そりゃ一理あるかもな」


「ちょ、ちょっと待ってよ。そういえば、ガーク達は自分が獣人にされた理由は知らないの?」


二人の話に、遙が割り込んで言った。ガークはぼんやりした様子で頭を掻く。


「ああ? まぁ、そう言われればそうだな。GPCの奴らも、そこは危惧していたのかもな。
俺ら被験者に余計な情報を与えれば、謀反を起こす原因にもなりかねないだろうし。ま、そうやって教えない辺りが、兵器目的ってのもありえることだろうけどよ」


「でも、このご時世に生体兵器か。確かに個々の力は人間を越えているかもしれないが、ヒトを素体として使うのはおかしなことだな。
ガークの言うように、反抗することも、脱走することも考えられる。ウイルスによる、生物兵器の一つでも作って置く方が利口な気がするがな」


レパードが嘲笑と共に言う。

彼女の言うように、人間を実験体として使うにはかなりのリスクが生じるのは確かだった。

何しろ、本人の了承も無しに、命さえ落としかねない実験を行うというのは、明らかに倫理的な問題が関わってくる。

その上、人間は他の動物と違って知能の突出した生物だ。レパードの言葉どおり、脱走や謀反の恐れは充分にあるだろう。

それなら、人間を被験体として扱うよりも、遺伝子操作を加えたウイルス兵器、いわゆるバイオテロのようなおぞましい構想を挙げる方がまだ現実的である。

GPCの技術なら、遺伝子操作など容易いことだろうに……とは言え、これらはあくまで、GPCが兵器目的で犯罪行為をしている、ということが前提なのだが。


GPCの目的。悲しくも核兵器や生物兵器などの発展が目覚しい現代において、兵器目的の可能性は薄い。

となると、一体何のために獣人の製造をしているのだろうか。研究員達の歪んだ好奇心? あるいは……



「……これは私の考えかもしれないけど、GPCってのは一枚岩じゃないのかもしれないわね」


フェリスが背伸びをしながら言った。

その言葉に、考えに耽っていた遙が目を向ける。


「つまり、沢山の目的を持って動いているということですか?」


「それならば、GPC内で紛糾が起きてもおかしくないだろうな。……ハルカを、他のGPC研究員に捕まえさせたくないということか?」


ゲイルもフェリスの意見に賛同するように口を開いた。


「でも……」


皆の言葉に、遙は複雑な表情で俯いた。


「私を捕まえて、どうするつもりなんでしょうか……? 完全なキメラ獣人にされて、戦場にでも送り込まれてしまうのかな」


GPCで完全なキメラ獣人にされて、多くの人の命を奪うようなことになったら……

それこそ、遙は耐えられないことだった。これ以上、自分のせいで人の命を奪うようなことはしたくない。


「バーカ、安心しろよ。俺が護ってやるって言ったばかりじゃねぇか」


遙が両手を握り締めて震えている中、ガークが元気付けるように胸を張って言った。


「そうよ、GPCの奴らが幾ら釣るんでも、私達がいるわ」


フェリスも遙に顔を向けて微笑む。それを聞いた遙の顔が明るくなった。


「……私は仲間になった覚えは無いぞ」


一方で、レパードは顔を逸らして答える。その様子を見たフェリスは眉を上げた。


「……そういえば、レパード。コバルトは何処へ行ったのよ。一緒じゃなかったの?」


フェリスの問いに、レパードは机に頬杖を突きながら口を開く。


「お前に答えるのも癪だが……生憎、私は飼い犬に首輪を付ける趣味なんか無い。放し飼いだ。
そこらじゅうを歩き回って、少し時間を開けて、思い出したように戻ってくる。……そんなヤツだから、今は何処にいるのか分からないさ」


「ネコみたいだな。変なヤツだぜ。……まぁ、生きているってことだよな」


ガークが顎を掻きながら、窓の外に見える夜空に視線をやった。

そういえば、レパードにはもう一人仲間がいると言っていたような。遙は目を瞬きながらガークと同じく外を見た。

ガーク達の元いた仲間達は、全て合わせると何人程いたのだろう。まだ多くの仲間達が、この絶対不可侵区域に散っているのは確かなようだが。


「今は分からないがな。あいつも何かと隠し事が多いヤツだ、GPCにやられるとは思えないさ――それよりも」


レパードは一思いにコーヒーを飲み干すと、空になったカップをリオに渡して立ち上がった。


「話したい事があるとか言っていたな、フェリス。私とてあまり長居はしたくない、とっとと聞かせてもらうぞ」


「やっぱりせっかちねぇ。……取り合えず、場所を移しましょうか」


フェリスは苦笑してそう言うと、レパードを連れて外へ出て行ってしまった。

遙は二人の後ろ姿を見送ると、膝に手を付いて溜息を漏らす。


「何だよ、不満なことでもあるのか?」


「あ、ううん。……唯、不思議だなって」


ガークの問いに、遙は顔を上げた。


「元々、皆仲間だったのに、事件が切欠で別れて……だけど、こうやって話していると、やっぱり友達なのかなぁ、って思うんだ」


レパードも確かにフェリスを恨んでいるらしい言動や行動が見て取れるが、さっきのように普通に会話をしているのを目の当たりのすると、どうもその真意は疑わしい。

やはり彼女の根底には、フェリスは仲間だという感覚が根差しているのではないかと感じるのだ。

それでいて、あのように冷たく振舞っているのは、レパード自身の性格によるものなのだろうが。……どちらにせよ、再び騒動が起きる雰囲気が無い事に、遙はホッと安堵した。


「何か、仲が良さそうに見えるんだ。あんなこと言っているけど」


「なんだ、フェリス達のことか? まぁ、心の奥底じゃあ、とっくに和解しちまっているのかもな。あいつらは元々親友だったんだ」


「BR……だっけ?」


遙が唐突にガークに聞いた。


「元のグループの名前」


遙の発した言葉に、ガークは眉を上げると、静かに目を細めた。……まるで、昔を思い出すかのように。


「ああ、そうだったなぁ。BR『Beast Resistance』の頭文字を取ってそう言ってたらしいんだ」


「ビースト・レジスタンス? そう言っていた『らしい』ってどういうことなの?」


「グループの首領だったヒトが、そう言ってた。けど、こうやって解散しちまったからには、もうそんな名前も意味が無くなっちまってるけどな」


「そんな……」


「まぁ、看板ってモンは無くなっちまったが、自分達でそう名乗るのは悪くないことかもな。以前の仲間との合言葉みたいに使えるし」


遙が複雑な表情で見詰める中、ガークは欠伸をしながら答えた。


「BRの目的はGPCを潰すことだったんだよ。そう簡単に出来ることじゃないが、奴らが人間に戻れる手がかりだって持っている筈だからな。
……何班かに分かれて、GPCの情報やこの絶対不可侵区域から脱出する方法を探っていたのさ。俺はD班に所属してて、隊長がフェリスだったような……丁度、半年ぐらい前の話だなぁ」


「当時は賑やかでしたからね。今は散在している仲間も、固まっていましたから」


二人の話に雑じるようにして、リオが言った。

彼女の言葉を聞いたガークは、右手をひらひらと振る。


「ま、昔のことを気にしてたらつまんねぇよ」


ガークはそう言うと、遙の肩を叩いた。


「今は今で良いだろ。こうやって離れ離れになってたお前達とも生きて話をしているんだ。それに越したことはねぇさ」


「フェリス達はどうだか分からんがな。お前みたいに素直過ぎる性格ならば、もっと仲が落ち着きそうなものだ。
……火花が飛び散らない内に、少し様子を見てくるか」


ゲイルは微笑みながらそう言い残すと、椅子を軋ませてゆっくり立ち上がった。


「あ、それなら私も……」


リオも釣られて立ち上がり、身長差がある二人は部屋の出入り口に足を運んだ。

ゲイルはあっさり廊下へと出て行ったのだが、リオは入り口の所で一度立ち止まり、遙達に振り返ると「Ate logo」と呟く。

それを聞いたガークは小さく息を呑み、苦笑して返す。……遙は母国語であろう彼女の言葉を、ぼんやりとした視線で聞いていた。


「……何て言ったのかな?」


遙はおもむろに呟いたが、ガークは外を見詰めて笑った。


「お前が外国語分からなくて良かったもんだよ。……今は休んでろ、だってさ」


何か腑に落ちない。遙は胡乱な目付きでガークを見返したが、彼は相変わらず夜空を見ている。


……ヒトが少なくなったのもあってか、遙は急に眠気が襲ってくるのを感じた。

もそもそと寝台のシーツを捲り、頭を枕に押し付ける。皆には悪いが、今は布団に入って休むことにした。


「……フェリスさん達、大丈夫かな?」


寝台に横たわったまま、遙は小さな声で言った。

布団の中で、眠そうに呟く遙に目をやったガークは邪気の無い笑みを浮かべて答える。


「平気さ。何も心配することはねぇよ。明日になれば、全部丸まっているさ」


「そうかな? ……ねぇ、ガーク」


遙はいよいよ目を瞑りながら、ガークを呼んだ。


「何だよ、眠そうな顔で呼ぶな」


瞼を閉じると、遙は息漏れのような微かな声で呟き始める。


「……もっと、昔みたいに、仲間が集まると良い、ね。……同じ、獣人同士で、分かり合える、仲間達……だか、ら」


「……ああそうだな。他の奴らも、どうしてっかなぁ。……でもよ、完全に元通りになるってことは、多分無いんだ。
同じ状況ってのは、二度と無い。どんなに似せて造ろうとしても、結局は全部揃わないものなんだからよ――遙?」


ガークがちらりと遙を見た時、彼女は小さな寝息を立てて眠っていた。

流石に疲れているらしい。それはそうだ。昨日から非現実な出来事に巻き込まれて、ロクに眠ってもいなかった筈。

こうやって、人前で眠れるようになったのは、ガークに心を許したこともあるだろうが、それ以上に疲労が重なっているのだろう。


状況に似合わない、幸せそうな寝顔を浮かべた遙を見て、ガークは歎息した。


「言った傍から眠りやがった。……まぁいいさ」


外から映える月は、星と共に静かに瞬いていた。






――――――――






「話って何だ? さっさと言え」


レパードが大儀そうに言い放った。彼女の態度に、フェリスは頭に手を当てて、どっと溜息を漏らす。


「こっちだってそれなりに勇気のいることなのよ。……あなたと話すのは」


一階の談話室に下りてきた二人は、月光の光のみを頼りに、お互いの眼を見る。

レパードは手頃な場所にあったパイプ椅子に腰を掛けると、脚の曲がった机に肘を突いた。


「……言い訳はもう聞かんぞ」


レパードに睨まれて、フェリスは苦笑すると、そっと手を出した。


「何のつもりだ?」


「唯の握手よ。……こうやって生きて会えたことに対する、感謝の意味で」


レパードは一瞬、眉を顰めたが、溜息と共にその手を掴み返す。

昔と比べると、彼女の手は随分冷たく感じた。当然か……それを感じたフェリスは、息を吐く程の小さな声で呟く。


「ありがとう」


その言葉にレパードは無言で返すと、フェリスの手を離した。


「それだけで良いのか?」


レパードが見上げてくる中、フェリスは苦笑しながら答える。


「まぁね。……あなたが生きていてくれて、本当に嬉しかった。嘘じゃない……って言っても、あなたは聞かないのでしょうけど」


フェリスの言葉に、レパードは鼻を鳴らした。


「そうだな。……お前は半年前のことを、良く覚えているか?」


急に話を変えたレパードに対して、フェリスは眉を上げた。


「……あの日のこと?」


「いいや、それよりももう少し前……まだ事件が起きる前の日。どんな感じだったか、覚えている?」


レパードの問いに、フェリスは目を瞑って微笑んだ。


「ええ、もちろん。あの頃はもう獣人だったのに、どうしてか笑って過ごしていた。……皆のおかげかな」


「そう、笑ってたんだ。お前と私も、ガークの奴も、全員だ。無茶苦茶なことばかりしていたが、今よりも、楽しかった気がするよ」


レパードは割れた窓から見える、夜の荒地に目をやった。

そこにはすでに何者の姿も面影も残っていない。唯、薄暗い廃墟を、乾いた砂風が吹き抜けて行くだけだ。

彼女の視線を感じたフェリスは、悄然と笑みを消して、目を細める。


「今は、ばらばらになったからかな? ……そうも思ったけど、やっぱり何か違う」


フェリスは苦しげ顔を歪めると、両手で頭を抱えた。


「元通りには、ならないんだ……あなたと話していると、それを実感させられる」


「そうだな。……こんな話をするのも恥ずかしいんだが」


レパードは机に積もった埃を、指先でなぞりながら続ける。


「私は、あの頃、ずっとお前の背中を追い駆けていたんだ。やる事成す事、自由奔放で、誰にでも気さくで……それでいて、戦いでも強かった。
正直……羨ましかった。その強さが、自分に無かったものだから」


ぎりっと、レパードは歯を食い縛ると、合板の机に震える爪を立てた。


「だから、私に出来ることが、お前に出来ない訳が無いって、心の中で思ってたんだ。……フェリスが、目標そのものだったから」


「レパード……?」


フェリスが驚いたように名を呼ぶと、レパードは急に椅子から立ち上がった。


「唯の下らない言い掛かりだろうけど。……どうして、お前は獣人化の制御が利かなかったんだ?
私よりもずっと強い心を持っているお前が、それを出来なかったということが、信じられない……今でも……」


レパードがその赤い眼を滲ませるのを見て、フェリスは口を引き締めて無言で返した。

心が引き裂かれるような痛みが、ずきずきと胸を疼かせる。……彼女の言葉に対して、結局答えてやれない悔しさがあった。

フェリスが押し黙っていると、レパードは再びずるずると椅子に身体を預けた。机の上に、滴の跡が点々と残っている。


「……数ヶ月前までは、一緒に笑い合っていたお前に、どうして私は牙を向けているのか。……その答えは私の弱さに他ならない。
目標だったお前が起こした惨劇を受け入れたくなくて、現実から逃げ惑っているんだ。……本当に許せないのは、お前じゃなくて、自分自身なんだろうな」


レパードは額に掌を押し付ける。本心を吐露したレパードを、フェリスは複雑な表情で見ていた。

あの時、自分が起こした惨劇は仲間達全ての歯車を狂わす結果となった。あまりにも重い責任と罪悪感が、フェリスの心には根付いている。

命を奪われた者、重傷を負った者……それ以外にも、大きな心の傷を負った者が多くいる。その一人がレパードなのだ……自分の親友であった仲間。

彼女の心にも激しい葛藤があるのだろう。珍しく自分の感情を吐いたレパードからは、昔の面影がしっかりと浮き彫りになっていた。


だが、彼女がどう言おうと、全ての発端は自分にある……フェリスは苦笑を漏らした。


「お互い似たようなものね……責任は自分にあると思っている。自分ひとりで背負い込んで、解決しようって。
でも、結局、背負い込むだけ背負い込んでいたら、いつか限界は来るものなのよ」


フェリスの言葉に、レパードは顔を上げた。


「だが、最終的に償うべきは自分自身だ……誰も助けられないんだよ。私はお前の力になることも、力を借りることも出来ないんだ」


「そのとおりだけど、償うために一人で生きていこうなんてすれば、それはきっと間違っている。
一人で償い方を探していても、最終的に本人が償ったかなんて分からないわ。……他の人が見ていて、初めて罪は償いきれるものなのよ、レパード」


フェリスは真摯な眼をレパードに向ける。


「助けられない……って言っていたけど、出来ることなら、あなたには私を見ていて欲しい。
きっと、グループが解散する時に、ガークが残ってくれた理由もこのことだと思う。……私の罪滅ぼしを見届けるために、いてくれたんだ」


フェリスの強い視線を浴びながら、レパードはむず痒そうな顔をすると、そっと俯いた。

その表情は見えなかったが、肩がほんの微かに震えているのが分かった。……レパードは顔を上げる。


「嫌な役目だな、フェリス。だが、それも仲間の役目という奴か。この調子じゃ、どんなに離れようとしても、腐れ縁で再会することもありそうだ。
……また会うその時まで、お前がどれだけ成長しているか、楽しみにしているよ。口だけ達者なネコにならないようにな」


苦笑と共に言うレパードに対して、フェリスも薄らと微笑んで見せた。


「もう二度とあんなことを起こさない。今度は、必ず仲間を護ってみせるわ、あなたのためにも……ね」


「随分と綺麗事を言うじゃないか。まぁ、それだけ自信たっぷりに言われれば、言い返す気も無くなるよ。
だが、お前がそう言ったからには、あのハルカとやらをGPCの奴らから護るということになるな」


レパードの捻った言い方をしてみせた。それにフェリスは笑みで答える。


「そうね、あの子を狙って、今からもっと戦いは激化していくのかもしれない。
けれど、遙は私達の仲間よ。GPCの幹部が襲ってくるとか、そんなことは脅しにならないわ」


「……その根拠の無さは相変わらずだが、何だかんだでそういうところは気に入っているよ。昔の好で、ちょっと耳寄りな情報を伝えてやろうか」




そう言うと、レパードは懐から何かを取り出すと、それをフェリスに向けて放り投げた。

フェリスは投げられたそれをあっさり掴み取る。開いた掌の上には、小さく畳まれた紙が載せられていた。


「これは?」


「開いてみれば分かるさ」


フェリスは言われたとおりにその紙を広げた。

丁度、メモ帳程度の、小さな紙だった。所々に茶色の染みが生じ、破れた跡もある。

綺麗な状態とは言い難い紙だったが……それに描かれているものに、フェリスは目を向けた。

地形図に合わせて、幾本もの線が張り巡らされている。所々、太めに記された線も見受けられた。


「これは、地図かしら?」


「此処が絶対不可侵区域になる以前の地図だ。地図、といっても、唯の地図じゃない」


レパードが地図上に走る太い黒線を指で指した。


「下水道地図だ。……この絶対不可侵区域内と、『外界』とを繋ぐ通路って奴だよ」


「! ということは……」


「そう。もしかしたら、外に出られるかもしれない。……GPCの奴らによって、下水道の殆どが潰されている中で、此処だけは盲点だったかもしれないな」


驚くフェリスを他所に、レパードは線を指で伝う。


「敵の攻撃を避けるために近くの浄水場に進入した際、この地図を含めた十年以上前の資料を見つけたんだ。
……この絶対不可侵区域は、以前は最先端の技術を持った都市だったということは知っているだろ?」


「ええ、まあ。だけど、それとこれは関係あるの?」


「私が指差しているこの下水道は合流式下水道だ。合流式は汚水を河川に流出させることもあるから、殆どが分流式に変更されている。
この土地も十年以上前から分流式に変更する作業が行われてきていたんだ。最先端だというのだから、ほぼ全てが入れ替えられている『筈』だったんだよ」


レパードはフェリスの持つ地図を、指先で軽く弾いてみせた。


「だが、その話に乗らない企業もあったようだな。コストと手間を惜しんで、一部の企業が合流式のまま計画を隠蔽し、放置した下水道が幾つか残っている。
そのうちの一つが、この絶対不可侵区域の外まで繋がっているんだ」


「! 本当に?」


フェリスは黒線の位置を真剣になぞった。

線は山間を越え、確かに外まで繋がっている。しかし、その下水道は企業が隠蔽していた場所だ。そこを通るには問題が少なからずある。

フェリスは顎を指で擦りながら眉を顰めた。


「通ることが、出来るのかしら? 十年以上前で、尚且つ点検作業も行われていなければ、此処一帯を燃やした銃火器の影響も懸念出来ないでしょ?
それに、GPCが塞いでいない、という話も、今となってはどうか分からないわ」


「あくまで可能性の話だ。それはお前にくれてやる。……どうせ私は此処から出るつもりはないからな」


「……」


フェリスは無言でその紙を胸にしまうと、レパードを見た。


「ありがとう」


「二度目だな。借りはとっておこうじゃないか。……さて」


レパードは椅子から立ち上がると、出入り口のドアノブに手を掛けた。

そして、フェリスに背を向けたまま、独り言のように呟き始める。


「……運が良ければまた会いそうだな、フェリス。頼まれたからと言って、お前の死体を見届けるつもりは無いぞ」


「レパード……」


「ゲイル、リオ」


レパードはフェリスの声を打ち消すようにして仲間の名を呼ぶと、大股で外へ出て行った。

彼女が歩いて行ったその先には、ゲイルとリオの姿も見えた。

二人の間を潜り抜けて、玄関口へ向かうレパードの背に、フェリスは笑いかける。


「すまんな、せっかちな隊長で」


呆れたような声で話すゲイルに、フェリスは苦笑する。


「はは、似たようなものだからね。私も。……気を付けて」


「はい、フェリスさん達も。また会いましょう」


名残惜しそうな笑顔を浮かべたリオが、代わって言うと、彼女達はレパードを追って夜の荒地へと足を進めて行った。

フェリスは三人の姿が消えた後も、ぼんやりと玄関を見詰めていたが、やがて、思い立ったように胸にしまっていた紙を取り出した。


地図の書かれた紙の裏に、殴り書きされた文字が見える。インクが新しい……薄らと、滲んだ痕もあった。


「『 Viel Glück 』......あの子らしいね、口で言わない所が。――Ate logo !」


フェリスは外から差してくる月光を見詰めながら、そう呟いた。





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